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「「鳥」シリーズ」
少年(ジンウ27歳)

少年(ジンウ27歳)

 ←マニキュアが乾くまで【第4章】 →こいつ!!
春休暇の人波はすでに消え去っていた。
昨日までは連日、パネルの前で立ち止まってじっくりとクンホの世界を堪能することは無理があったが、休暇も終わった今日は、その反動とでも言うようにギャラリーはいない。

ガランとしたカリンビルのイベントホールには弛緩した空気が漂い、クンホは自分の写真の前にたたずみながら、写真までがまるで昨日とは違う印象を与えるようだと苦笑した。

2週間の開催期間、クンホは初日と最終日だけに立ち会うことになっていたが、今日はクライアントの関係で、ふいに仕事が空いた。
気まぐれにこちらへ来て、先ほど、今日の担当だったジンウに「先に食事にいって来い」と、ホールから追い出した。
本音を言えば一緒に行きたかったのだが、ジンウがよしとしなかっただろう。
ついでに受付に座っていた脚のきれいな女性にも休憩を言い渡し、
オープン初日から大勢のギャラリーがひしめき合っていたイベントホールで、一人で自分の写真と対峙する。

今回の写真展は、カリンの社長からのお声がかりで、この10年間に撮り続けた写真の中からセレクトした50点のパネルを並べている。
新しい写真集の撮影と平行して準備に入ったのでかなり慌しかったのだが、50点、1枚、1枚の撮影エピソードは即座に思い浮かぶ。
すべてにジンウがいた。
出会い、この腕に抱き、一度は振り払われながらも、取り戻した男。

50点すべての写真の中に、ジンウの姿を見つけることができる。
クンホは人知れず微笑んだ。

「そろそろ独立させる時期ではないのか」と言う外野の声は聞かぬ振りをしていた。
そろそろどころか、ジンウはすでにその時機を逸してしまったのかもしれない。
今でさえ、クンホのチーフアシスタントという肩書きにもかかわらず、名指しで仕事が入ってくることも往々にしてあった。
クンホは、ジンウが一人前のカメラマンとして扱われる仕事は止めなかった。
しかし、まだ独立は許していなかった。

ジンウを追い越し、多くのアシスタントがクンホの元からはばたいている。
しかし、ジンウの翼は、クンホがしっかりとその膝の下に押さえつけ身動きは取れない。
ジンウは何も言わず、ただそんな仕打ちに耐えている。
まるで自分から望んでいるかのように・・・。

かさり・・・と、クンホの背後で誰かがこのホールに入ってきた気配がした。
クンホは写真の前から動かなかった。
こうしていれば自分もギャラリーのひとりに見えるはずだった。
クンホの顔を見知っているギャラリーは多いが、写真を見ていれば無闇に声はかけてこないはずだった。

ちらりと横目でそのギャラリーを見ると、若い、いやまだ少年と言うべき男の子だった。
入り口付近のパネルに見入っているので距離はあるが、しかし、その身長がすでにクンホと並ぼうとしていることは分かった。
すらりとした体に淡いブルーのシャツと細身のジーンズと言う格好で、食い入るように写真の1枚1枚に視線を這わせている。
まだ子どもなのに写真のよしあしが分かるのかと、クンホはふいにその少年に興味を持った。

少年は、1枚1枚舐めるようにしてパネルをみつめ、ゆっくりとクンホに近づいてくる。
クンホは相手が少年だという気安さから、マナー違反である事も無視してその横顔をみつめた。

短い髪の毛は、確かに彼がまだ中学生か高校生である証拠だろう。
少なくとも大学生という年齢には達していまい。
秀でた額、やや薄めの眉の下の目は切れ長で、高い鼻梁の翳を映している。
細めの唇は紅く、写真に魅せられている証拠に、やや開き加減で白い歯を見せている。

しかし、クンホはその少年をみつめているうちに、何か違和感を持った。
違和感・・・。
違う。

何か懐かしいもの?
いや、違う。
既視感。
デジャヴ?

何かそれに近いもの。

思わず足を踏み出し、その少年に声をかけようとしたとき、彼も何気なくクンホへと視線を動かした。

その瞬間。

お互いに立ちすくむ。

白い肌の少年の頬がみるみるうちに紅潮していくのを、クンホは不思議なものでも見るように、ぼんやりと眺めていた。

鏡。

自分の過去を映してくれる鏡。
ミンジュを追い求めていたあの頃。
高校生だった自分。
ひたすらにミンジュを追い求めたあの夏の日。

「誰だ?」

思わず問い詰める声が出たことにクンホは自分で驚いた。
驚愕しているのは自覚している。
だからこそ足がすくんで動けない。

目の前の少年は、クンホに咎められた事を自覚したのか、びくんと体をすくませ、しかし、やはり身動きできないようだった。
切れ長の目を張り裂けるほどに見開き、クンホ同様、驚愕した表情を浮かべている。
一瞬にして紅潮した頬から、すとんと色が落ち、たちまち青ざめていくのをクンホは認めた。

「あの・・・」
「誰なんだ、君は」
ふいに恐ろしい予感に包まれ、クンホは身震いした。

「僕は・・・」

「サンミン!」
「母さん!」

ホールの外からかかったやや甲高い声に、サンミンと呼ばれた少年は明らかにほっとした様子で素早く振り返った。

「ごめんなさい、遅くなっちゃって。
おみやげ何にすればいいのか迷っちゃって・・・」

無邪気に言い募りながら息子のそばに駆け寄った母親の姿を見て、クンホは眩暈がするほどに驚いた。

「・・・ヌナ」

つぶやくように言ったクンホの声は、誰もいないホールに思った以上に響いた。
はじかれたようにその女性がクンホを見る。

くっきりとした黒勝ちな大きな目。
白い肌、やや小さめだが形のよい唇。

ヌナ。
チャン・ルウ。
温かな繭。
俺だけの・・・。

母さん?
サンミン?
息子?

一瞬にして様々な思いがクンホの脳裏を駆け巡った。
一度にあふれ出した想いが、クンホの体を蹂躙する。

「ヌナ!」

ルウは、クンホを凝視していた顔をふっと傍らの息子に向け、そして息子に微笑みかけると、その視線をまたクンホに戻した。
聖母のような微笑みとともに。

「久しぶりね、クンホ。元気そうで安心したわ」

ひどく落ち着いたその声音が、ルウが自分に会うことを前提にしてここまで来たのだとクンホに教えてくれる。

「ヌナ・・・」
「クンホ、私の息子よ、イ・サンミンよ」

ルウの穏やかな言葉に、サンミンと呼ばれた少年は、その蒼白な顔で傍らの母親を見下ろし、それからすぐにぺこりと頭を下げた。

しかし、顔を上げてもクンホを見ることができずに、横を向いてしまっている。
その少年が唇を噛み締めていることに、クンホは気がついた。
ルウへの言葉が溢れそうなのに、なぜだかその横顔から視線をはずす事ができない。

一歩、彼らに近づき、クンホは思わず手を伸ばしそうになった。
少年に対する欲望ではない。
もっと、根源的なもの、もっと、切ない何か。

「クンホ」
ルウの声がその行為を遮る。
クンホは慌てて差し出しかけていた手を宙で握り締めた。
「ヌナ・・・。何年ぶりだろう」
自分の行動を恥らうようにルウへと視線を向けて、クンホはあらためて言葉に出した。
「17年ぶりよ。私たち、今、日本にいるの。
夫の仕事の関係で・・・。この連休に久しぶりに里帰りして来たのよ。
明日にはまた日本へ帰らなくちゃ。
でも、昨日新聞であなたの写真展が大盛況だって読んで・・・来てしまったの」

17年の歳月を経ても、ルウの清楚さは失われていなかった。
大きな目はまっすぐにクンホを見ている。

たった一度、この人をこの腕に抱いたのだと、あらためてクンホは想う。
あの夜だけは、何があっても自分の中で失われない。

「ヌナ」

何か、何か言わなくてはと焦るクンホを遮るように、ルウは微笑みながら言葉をつなぐ。

「クンホ、あのね、私、まだ日本のお友達へのおみやげを買わなくちゃいけないの。
この子に・・・、サンミンにあなたの写真を見せてやってくれるかしら?」

母親の言葉に、息子はひくりと体を動かした。
母親の言葉に逆らいたいが、逆らう事が許されないとでも言うように。

「ああ・・・。いいけれど。ヌナ、話・・・話はできる?
あとで・・・。その、買い物がすんだあとで」

ルウは、クンホの昔に戻ったような、どこか甘えるような言葉にふうわりと微笑んだ。
昔と同じ、クンホを包み込むような微笑だった。

それから、傍らの息子の腕にそっと触れると、ちょっとだけ小首をかしげ、不安げな彼に何か問いかけるような仕草を見せると、しかし、そのまま背を向けた。

ホールには、クンホと少年だけが残された。
クンホは少年をみつめ、しかし、彼は目をそらしたまま。

「写真は・・・好きなのか? 」

何を話していいのか分からず、クンホは他愛もないと自分で自分をあざ笑いながら、そんな言葉を口にしていた。
先ほど、熱心にパネルをみつめていた少年の姿をクンホは見ている。

「はい」
意外なほど素直な返事が少年の口から漏れた。
しかし、顔はそっぽを向いたままだ。

仕方ないので、クンホは一番近くにあるパネルに近寄った。
それはジンウと出会ってすぐに撮った写真だった。
やせぎすなモデルのビキニのボディだけを切り取った写真。
首から上と、太ももから下はない。
キワモノに近い写真だったが、当時は絶賛された。
「モノクロームの世界に閉じ込められた人間の神秘」と。

実は、それは男性の体だった。
一見すると豊かな胸とウエストの見事な括れが女性であることを強調しているが、股間の大きなふくらみがそれを裏切る。
センセーショナルな写真だが、クンホが撮ったということで世間は納得した。

ゲイが撮ったのだから・・・と。

クンホはそんな世間をあざ笑う。

しばしその前にたたずみ、クンホはいつの間にか傍らに立った少年に気付き、慌てて場所を移動した。
少年には少々刺激が強いのではと、いまさらながらに想ったのだ。

しかし、少年は特に恥ずかしがるふうもなく、まだその写真を凝視している。

「このひと・・・男ですか? 女ですか?」
素朴な質問に、クンホは仕方なくもとの場所に戻った。
ルウに叱られそうだなとちらりと思う。

「どちらだと想う?」
「・・・天使・・・」
「天使?」
「はい。アンドロギュヌス・・・。
でも、天使って、本当は胸の膨らみも、男のシンボルもないのかな?」
「さぁ・・・」

少年はそれだけをつぶやくように言うと、クンホの前を通り過ぎて、次の写真の前に移った。
クンホもそこに肩を並べる。

二人で同じ写真を眺めながら、ふとクンホは思った。

もし、誰かが今の自分たちを見たら、ほとんど間違いなく、この少年がクンホの新しい愛人だと思うことだろう。
ジンウがそうだったように・・・。
それがこの少年にとっては迷惑である事をクンホは知っている。

しかし・・・。

二人で何も語らず、写真の前に一つ一つ立ち止まりながら、じっくりと眺める。
しかし、クンホは写真に集中できない。
ひどく、惹かれる。
けれど、先ほども悟ったように欲望ではない。
少年はゆったりと呼吸している。
クンホは息苦しくなる一方だというのに。

「いくつ?」
「16歳です」
「・・・16歳か。君は・・・その、お母さん似なのかな?」
「いいえ。両親は、父親にそっくりだといいます」
「お父さん・・・。でもお父さんは・・・」
「ご存知なんですか?僕の父、イ・サンジュを」
「一度、いや、二度かな・・・。お見かけしたことはある」

そう、あの夏の夕暮れと結婚式の日に。
しかし、サンジュはいかつい顔をした男だった。
少なくともこの細面のサンミンがそっくりだというのは・・・。

「昨年、父は交通事故に巻き込まれて、生死の境をさまよいました。
母は、医者から、今夜意識が戻らなければあきらめたほうがいいと言われたそうです」
「それは・・・」

唐突に語り始めたサンミンの真意を量りかねて、クンホは返事に困る。
常に少年を求めながら、しかし、徐々に乖離していく少年たちとの距離に、最近のクンホは戸惑い始めていた。

「でも、父は意識を取り戻しました。
半狂乱になってすがって泣いていた母の泣き声がうるさかったから目が覚めただなんて、
父は意識を取り戻すなり、そう言ったんです」

あのルウが・・・。

「母のそんな姿、想像できますか?」
「あ、いや」

自分の心うちを見透かされたようで、クンホは慌てて首を振った。
そんなクンホをちらりと見て、少年はまた言葉をつなぐ。

「僕も初めて見ました。
僕たちを叱る時だって、大きな声を出すような人じゃなかったから。
『あなた、目を開けて。私の名前を呼んで』って、母は父にすがって号泣していました。
僕は・・・、そんな母の姿は見たくなかったけれど・・・、でも、なんだか・・・、感動しました。
母と父は、とてもいい夫婦です」

クンホはうなずかざるを得ない。

「君のお母さんとお父さんなら、分かるよ。きっと、とてもいい夫婦だろう」

「はい。
僕は・・・、父と母の子どもに生まれて、とても幸せだと思っています」
きっぱりとサンミンはうなずいた。
満足そうな微笑がその口許に浮かんでいる。

やはり、見たことがある。
彼の横顔。

その少年が、突然、目を耀かせた。

「この写真、僕は見たことがあります。
僕が小学校を卒業したときに父が連れて行ってくれた写真展で見ました」

サンミンが嬉しそうに言ったのは、「集う街角」というタイトルがつけられたパネルの前だった。
その写真は、街角にたむろする少年や街娼たちの姿を断片的にとらえた組写真の1枚。
モノクロームの夕闇の中で、わずかな光を求めて集まる様々な人群れ。
皆うつろな笑顔を浮かべながら、見知らぬ人のぬくもりに巡りあってほっと安堵しているような、そんな希望が仄見える。
闇に紛れたいと願いながら、それでも光を求めずにいられない人間たちの哀しみを浮き彫りにした写真だった。

幾夜も幾夜も街をジンウと一緒にさ迷い歩き、多くのうつろな目をした人群れと出会い、シャッターチャンスを狙った。
ジンウはクンホのそばにひっそりと立ち、夜の街のうろんなものから師匠をひたすらに守り続けた。
いつも黙ってそばに立ち、けれど、その存在は大きかった。

少年はそのパネルの前に立ち、喜びに弾んだ表情でみつめている。

「僕は、この写真大好きです。
みんな、この小さな街灯の明かりに癒されている。
自然に集まった人たちだけれど、お互いのぬくもりで誰かを温めている。
先生の眼差しもとても優しい。
決してこの人たちを馬鹿にしていない。
先生は、本当に素晴らしいカメラマンだと思います」

やや興奮したような少年のまっすぐな言葉を、クンホは面映い気持ちで受け取った。
なんのてらいもない言葉は、素直にクンホの中に滑り込んでくる。
その心地よさは、クンホがはじめて感じたものだった。
しかし、少年は、そんなクンホの気持ちなど気がつかないようだった。

じっと写真を見ていた視線を、ひたとクンホにすえて、少年は、今度はゆっくりと口を開いた。

「父も言っていました。凄い写真だって。
世の中にはこんなに凄い写真を撮れる素晴らしい人がいるんだって。
この写真を忘れちゃいけない、この凄い写真を撮った人が、お前の本当のお父さんなんだからって」

ぴしりっと、クンホの周囲の空気が鋭い音を立てた。

一瞬、何を言われたのか分からず、クンホは少年を凝視した。
しかし、次の瞬間、ああ・・・と妙に納得した自分を知る。

愕然と・・・、多分、愕然としたのだと思う。
しかし、それはすぐに過去への想いに閉じ込められる。

少年も、クンホにそっくりな涼しげな目をして父親を見返している。
「父が・・・、サンジュ父が言っていました。
母は・・・、僕を一人で育てる決心をしていたそうです。
でも、父は、母が好きで・・・、どうしても結婚したかったそうです。
だから、僕のことも引き受けてくれました。
僕は、父の息子でよかったと思っています。
でも、父に言われたんです。
一度でいい、クンホ先生に会って、自分の本当の父親の素晴らしさを、その目で確かめてこいと。
母も、父の言葉に反対はしませんでした。
反対しようにも、僕があまりにあなたに似すぎていると、父が言います。
母は・・・、僕を見るたびにあなたを思い出しているのだと。
それでいいと、父は言いました。
そんな母だからこそ、父は母を愛しているのだそうです。
それに・・・、父にすがって泣いていた母の姿を僕は見ています。
母も父を愛しています。
だから・・・、僕はあなたに会いに来ました」

少年なりに落ち着いた声を出そうと自分を叱咤していることが、その声音で分かる。
時々、赤い唇が震え、途切れそうになる言葉を、それでも必死になってつなぎとめようとしている少年を、クンホはみつめた。

16歳の自分。
そっくりな息子。

奇蹟だと、クンホは思う。

「サンミン」
「はい」
「・・・俺を・・・、怨んではいないのか」
「どうして?
あなたが母を愛してくださったから、僕は父と母の子どもに生まれることができました。
感謝しています」

感謝・・・。
あのルウと、そして、すべてを知った上でルウの人生をくるみこんだサンジュの子どもなのだと痛感する。

不思議に、動揺はなかった。
今まで、一瞬たりとも自分の血を分けた子どもがこの世に存在すると考えた事などなかったのに、今、クンホは素直に信じることができた。
今、目の前に立っているまだどこかあどけない、仔犬のような目をした少年が、我が子なのだと

我が子にかける言葉を探す事も忘れ、クンホはただ息子をみつめていた。

あの夜の、たった一夜の結晶。
忘れえぬ愛の形。

「サンミン・・・」
「はい」

しかし、それ以上、クンホは何も言えない。

自分が撮った写真たちが自分たちを見つめている。
その中でたった二人。

あまりにクンホの眼差しが痛かったのだろう、サンミンはふいに視線をはずす。
しかし、しっかりと握り締められたこぶしが、そのしなやかな体の中で何かがせめぎあっていることを表していた。

「あの・・・」
「ん?」

視線はそらされたまま。

「父が・・・サンジュ父に言われたんです」
「お父さんに?」
「はい。あの・・・、お願いがあります。
・・・一度だけ、本当のお父さんに抱いてもらってこいと父は言いました。
その・・・、あなたがいやでなければ・・・なんですが」

ためらいがちなその言葉は、クンホの胸に深く落ちていった。
素直に願いを口にする16歳の少年を、いや、我が子をクンホは驚嘆の目で見た。
するすると伸びた身長は、もう間もなく自分を追い越すかもしれない。
どこか照れくささもにじませているが、それでも、真面目に自分に向かってくれていることに、クンホは感謝する。

「サンミン」
「はい」
「・・・君は・・・」

しかし、クンホはそれ以上言えなかった。
この少年はクンホの性癖を知っているだろう。
それゆえに母は結婚を望めなかったのだと、彼は知っているだろう。
しかし、今、彼は息子として、純粋に親に抱擁されることを望んでいる。

手を、伸ばしてもいいのだろうか?

いつも少年を、少年だったジンウを追い求めている自分の腕を?

クンホは動けなかった。
サンミンも視線をそらしたまま、いつの間にか唇を噛み締めている。

「サンミン・・・」
「はい」
「俺は・・・」

息子なのだと、自分の血を引いている子どもなのだという切ないほどの衝動は、クンホを包み込もうとしていた。
しかし、手を伸ばしてもいいのか。
少年の体を抱きしめてもいいのか?

「・・・もう二度と、あなたと会うことはない・・・と思います。
サンジュ父も、一度あって来いって言いました。『一度』って。
僕の父は・・・、イ・サンジュだから。
でも、僕は・・・、あなたの写真を忘れません」

ああ・・・。

クンホは手を伸ばす。
まだ華奢な肩を抱き寄せる。

少年。
しかし、我が子だった。

「サンミン」
「はい」
「幸せに生きてくれ」
「はい」

静かにその腕を開き、少年を自由にする。
恥ずかしさから目をそらしたまま体を離すサンミンを見て、クンホは胸の奥がひどく苦しくなってきたことに気付いた。

そのとき、
「サンミン」
ルウだった。

いつからそこに立っていたのか、ホールの入り口に立ち、二人の姿をみつめている。

「母さん」

母に本当の父親との抱擁を見られてしまったという羞恥で、少年はたちまち真っ赤になった。
それから、どこか拗ねたように、ぷいと横を向いてしまう。
その反応に、ああ、これが「少年」なのだと、クンホはしみじみと思う。

ルウは静かにホールに入ってきた。
「サンミン、帰りましょう。お父さんや妹たちが待っているわ」

母の言葉に、サンミンはもう一度クンホをちらりと見ると、さっさとホールを出て行ってしまった。
その拗ねたような横顔を、クンホは胸に刻み付ける。

「サンミン!」
母の呼びかけにも振り返らず、エレベーターを待つこともなく階段へと向かったのが、その足音で知れた。

「もう、困った子ね」
愛しげにそれだけ言うと、ルウはあらためてクンホを見上げた。

「ヌナ」
心の中に満ち始めていた息を吐くように、クンホはルウを呼んだ。

ルウは微笑む。

「驚かせてしまったかしら?
でもね、夫が、サンジュがどうしてもあなたとサンミンを会わせたがったの。
そっくりでしょう?」
「ヌナ、どうして・・・」
「クンホ。私は今、とても幸せなの。
サンジュは、夫は、絶望の中で光を捜し求めていた私を黙って抱きしめてくれた。
おなかの中にいたあの子と一緒に・・・」

ふいにルウの頬を涙が滑り落ちた。

「もう、・・・会うことはないと思うわ。元気でね」

「もう少しだけ、もう少しだけ、ヌナ」

「甘えんぼね、クンホ」

17年前と同じ言葉ですがるクンホを軽くいなし、ルウは頬を零れていく涙を自分の指でふき取った。
そして、言葉もないままに立ちすくむクンホをもう一度みつめ、そして、「さようなら」と、背中を見せた。

「ヌナ」

しかし、振り返らない。
ただ一人ホールにクンホを残し、ルウもその場を歩み去った。


ジンウがそのイベントホールに戻ってきたとき、ホールには数人のギャラリーが静かにクンホの写真を眺めていた。
しかし、その場にいるはずの師匠の姿が見えない。

ジンウはぐるりとホールを見回した後、控え室につながる小さなドアを開いた。
案の定、クンホはそこにいた。
シンプルだが趣味のよい応接セットのソファに座り込み、両手で顔を覆っている。

「先生!」
思わず師匠のそばに駆け寄る。
「先生、また頭痛ですか?鎮痛剤は、飲みましたか? 」
「ああ・・・、いや。ジンウ」
「はい」

ゆっくりと両手の中から上げたクンホの顔は、ひどく青ざめている。
切れ長の目が充血しているのを見て、ジンウはクンホが泣いていたのかもしれないと唐突に思う。

「先生、何かあったんですか?」
「ジンウ」
「はい」
「お前は・・・、なぜ拒まない」
「え・・・」

クンホの唐突な言葉に、ジンウはとっさに返事ができなかった。
何よりも、一体何を詰問されているのかがわからない。

言葉を捜して戸惑う弟子を見上げ、クンホはいきなり立ち上がると、挑むような目で彼を見据えた。
「ジンウ、なぜおまえは拒まない。
いやならば、俺のそばにいるのがいやならば、どうしていやだと言わない。
俺に抱かれるのがいやなら、どうしていやだと言わなかった!」
「先生」

突然の激しい言葉に、ジンウは息を飲んだ。
クンホが激昂する事は珍しい。
しかし、今、師匠は自分でも抑えきれないほどの激情に駆られている。

その激するがゆえに逆に冴え冴えとその美しさを艶やかに増していく師匠の顔から視線をはずす事ができず、しかし、ジンウは思わず一歩後ずさった。
クンホが一歩前に出る。
またジンウが下がる。
クンホが前に出る。

「ジンウ。なぜだ。なぜ、お前は拒まない。なぜだ。
今だってそうだ。お前を追い越して、次々とアシスタントは独立していく。
お前はでも、何も言わない。何も言わず、俺のそばにいる。
なぜだ!」

弟子を追い詰めながら、追い詰められているのは自分だった。
先ほど、抱きしめた息子の感触が、まだ自分の腕の中に残っている。
いつも欲望のままに抱いてきた少年たちと同じ感触。

そのぬくもりがクンホを苛む。

「なぜだ!」
「先生!」

壁に追い詰められ、ジンウは思わず師匠から視線をはずした。

なぜ、嫌悪すべき過去から離れられないか。
理由が判然とするのなら、もうとっくにここにはいない。

兵役でやっとその執拗に絡みついてくる腕を払いのけ、体の上に明らかな刻印を残していくその重みから逃れられたと安心したのに、結局自分は彼のそばに戻ってしまった。
自分をがんじがらめにしているのは、彼の写真だ。
自分をとらえて離さないのは彼の写真・・・いや、彼の写真の中にある彼の存在そのものだ。

自分から離れられるものならば、幾度もつぶやいてみた。
しかし、それは果たせずに、今もここにいる。

「ジンウ!」

その言葉とともに、自分に絡みつく腕。

「動くな!・・・動くな・・・動くな・・・動くな・・・」

哀願するような師匠のうめきに、ジンウは体を硬くしたまま、その抱擁に応えた。

やがて・・・、クンホはまるで何かをあきらめたように、その腕を放した。
そのまま、ジンウに背を向ける。

「もう、明日から、俺のところに来なくていい」
「は?」
「アシスタントは・・・、今日で終わりだ。もう、来なくていい」
「先生?」

しかし、クンホはもう何も言わなかった。
突然、自由になった翼のはばたき方を、しかし、ジンウは忘れてしまっている。
ジンウは自分に向けられた背中を凝視した。
クンホはジンウの視線を感じていたのだろう。
しばし、その場にとどまると、しかし、静かにドアを開いてホールに出て行ってしまった。

一人控え室に残されたジンウは、先ほどの師匠の言葉を幾度も繰り返す。

「もう、明日から、俺のところに来なくていい。
アシスタントは、今日で終わりだ」

来なくていい?
アシスタントは終わり?

つい1時間ほど前まで、ジンウの翼はクンホの膝の下にあった。
抑えこまれ、身動きが取れない状況の中で、ジンウはそれでもクンホのそばにいた。
それが突然自由になったというのか?

一体なぜ?

今日は、ギャラリーが少ないだろうという確信に近い予測の元、3人のアシスタントのうちジンウ一人だけが師匠のそばにいた。
「昼飯に行ってこい。ゆっくりでいいぞ」と、自分を追い出すようにしてランチに向かわせたとき、しかし、師匠の機嫌はよかった。
それが・・・。

やはり、先生は泣いていたのだと、ジンウは悟る。
しかし、なぜ?
そして、いきなりの自由?

ジンウは立ち上がると、波立つ胸を抑え込み、自分もホールへ戻った。

しかし、師匠の姿はホールになかった。
そのまま、閉館時間がきても戻ってこなかった。

その夜。

ジンウの元にクンホからの電話が入った。

「さっきも言ったように、もう明日から、俺のところに来なくていい。
クライアントにはお前が独立したことを伝えておく。
仕事は直接入ってくるはずだ。俺に遠慮する事はない。
ああ・・・、すぐに名刺を届けさせる。さしあたっての独立祝いだ」
「先生」

ジンウに言葉を挟ませることなく、クンホはそれだけ言うと受話器を置こうとした。
その気配を敏感に感じ取り、ジンウは思わず師匠に呼びかけていた。

「何があったんですか?」
「・・・何も・・・、何もない。・・・ジンウ」
「はい」
「ジンウ」
「はい」
「・・・チャン・ルウとイ・サンミンという名前を覚えておいてくれ」
「チャン・ルウ、イ・サンミン・・・ですか」
「ああ・・・。頼む」

かしゃん・・・と、受話器が置かれる音がして、ジンウは一人取り残された。

受話器を置いたクンホは、そっと背後を振り返った。
フロアランプだけに照明を絞った広いリビングのソファに座り、所在無げに少年が手元の雑誌をめくっている。

「見えないだろう、この灯りじゃ」

つぶやくように言いながら近寄ると、少年は明らかにくちづけを期待する目でクンホを見上げた。
その、仔犬のような目。

「・・・いくつなんだ?」
「18です」

18歳・・・。

その少年は、昨夜もこの部屋にいた。
クンホも立ち会ったモデルオーディションに来た少年だった。
今夜の約束は、今朝、してあった。

「今夜も来ていい?」
と、甘えられ、思わずうなずいていた自分。

「・・・すまないが、今夜は一人で眠ってくれるか?」

期待はずれの言葉に、少年はたちまちその美しい唇を尖らせた。

「・・・出かけなくてはならない。この部屋で好きにしていい。
鍵は、下のフロントに預けるか、ポストに放り込んでおいてくれれば」

それだけを告げると、クンホは少年の不服そうな顔を見るにしのびず、振り返ることなく部屋を後にした。
これ以上、少年たちのそばにいることは耐えられなかった。


ジンウの独立以後、クンホが少年を求めなくなったと、後輩アシスタントから聞いたのは、ジンウがクンホの写真集撮影のために呼び出されたときだった。

あの日から4カ月たっていた。




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