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「7月の花」
26日 ステファノティス

俺の言葉を聴け~ステファノティス~

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週明けの月曜日。
梅雨が明けた途端、いきなり温度計の水銀は急上昇。
エアコンで快適温度に完全調節されているはずのビルの中で蠢く人間でさえ、イライラが募ってくる昼下がり。
室内で仕事をしていれば暑さなんか感じないはずなのに、うっかりと窓の外に目をやれば、灼熱の太陽が容赦なくビル街を鈍く赫やかせていることに気付いてしまい、うんざりとした表情を隠せなかった。

うだるような暑さの中、外回りの営業から帰社した野々宮武士(たけひと)は、給湯室の前を通りかかり、そこから出てきた後輩とぶつかりそうになって危うく身を翻した。

「失敬!」
「あ、いえ」

武士が何とか身をかわした後輩は、自分がぶつかりかけた相手が憧れの第一課課長であることに気付き、またたくまに真っ赤になった。

「すみません!!」
「いや、こちらこそごめん」

真っ赤になった頬を抑えながら、慌てて廊下をかけてゆく後輩の後ろ姿を見送り、彼はひょいと給湯室を覗き込んだ。

営業部フロアの給湯室は意外に広い造りになっている。
その上、奥がカギ形に曲がっていて備品倉庫の役割を果たしているのだが、死角になっているのも確か。
ちょうど人が二人並べるほどの空間があり、時には社内恋愛中の男女が同僚たちの目を盗んでよからぬことをしていることも往々にしてあった。

けれど、今は・・・と、武士は給湯室に入ってゆくと、その奥をうかがった。
案の定、そこには3つ年下の沖野悠紀子が、造りつけの棚に背を預けるようにしてマイカップを傾けていた。

「や」
短い挨拶に、やや疲れた表情でカップを掲げて応じる。
「また相談事?」
武士の質問に悠紀子が苦笑する。

「誰でしょう、あの子をいじめている先輩営業マンは。
このままじゃ営業で働けない、辞めるしかないって切々と訴えられちゃったわ」
「ああ・・・」
心当たりがあるのか、武士は顔を顰める。
「西木のことか?」
「ご名答。理由は知っている?」
「ちょっとした言葉の行き違いだろ。西木はアドバイスしたつもりだったンだが、あの子はそれを業績の上がらない自分に対する皮肉か、批判だと受け取ってしまったらしい。
西木からは相談を受けている。
今、何を言っても彼女は唇を噛んでうつむいてしまうと。
感情的になってしまう前に何とかしたいってね。
このままじゃ、イケズな先輩って烙印を押されたまま、女子社員にスポイルされかねない」
「あら、あの子の言い分とはちょっと違うみたいよ。
『一生懸命に営業に回っているのに、何かといえば意地悪な先輩がねちねちと文句をつける』って言っていたわ」。
「そして、お前さんはその具体的な内容をいちいちうなずきながら親身に聞いていたんだろ、また」

呆れたような、どこか揶揄したような武士の言葉に、悠紀子は肩をすくめた。

「いつもながらカウンセラーのお役目、ご苦労さま。
後輩社員たちの訴え仏だものな、お前さん。
よくまぁ、素面で彼女たちの相談事に根気よく付き合っているよな。
僕には真似できないね、感心するよ、まったく」
「ダテに営業部に8年もいるわけじゃないもの。後輩の愚痴を聞くだけの経験と実績と、余裕くらいあるわ」
「おみそれしました」

馬鹿丁寧に頭を下げる武士を、悠紀子はちょっと睨み上げた。
身長180cmの彼が頭を下げても、157cmの悠紀子の頭上だ。

「でも、こっちも何とかしなくちゃまずいかな。西木も
気にしているしな。
若い女性社員の扱いは難しいからな」
「あら、ときには給料に見合ったことを考える気にもなるのね」
「一応課長ですからね。部下のモチベーションが下がって業績がダウンするのは願い下げだ。
僕の査定にも響く」

悠紀子がかわいらしく眉を上げた。
揶揄されたのが分かったが、武士も自嘲の笑いを浮かべるにとどめておいた。

「安心してくださいね、野々宮課長。多分大丈夫よ、彼女」
「はい?」
「あの子、西ちゃんが好きなのよ。だから、西ちゃんのアドバイスに過剰に反応する。
彼に認められたくて頑張っているのに、せっかく褒められても、ホントは素直に喜びたいのに、言葉の裏を必要以上に勘ぐっちゃうの。
臆病なのよ、彼女。
西ちゃん、女の子、誰にでも優しいしね。
だから、西ちゃんに耳打ちしておいてくれないかしら。
さりげなくスタバのコーヒーでもおごってやってって。
最初から食事なんてダメよ。ホントにささやかなものでいいの。
そして、ひとこと、『君の頑張りはよく知っている』とでもささやけば、彼女、たちまち笑顔になって頑張るわ。
かわいらしいのよ、恋する乙女は」

武士は感心するように悠紀子を見下ろした。
彼女は、涼しい表情でコーヒーを飲んでいる。

「何?」
「いや、相変わらずお前さんの恋愛観察、傾聴に値するなと思って」
「ダテに・・・、おバカな恋愛してないわよ、どうせ」
「だれもそんな・・・」

弁解しようとした言葉を遮るように、悠紀子は自分の腕時計を見て大袈裟に声を上げた。

「やだ!私、こんなところで1時間近くも彼女の話を聞いてたんだわ!
アポに遅れちゃう!!仕事しなくちゃ!」

自分の前に立ちふさがっていた武士の体を押しのけるようにして、悠紀子はシンクに自分のマイカップを下ろし、給湯室から出ていこうとした。

「沖野!」
慌てて呼びとめた武士の声に、訝しげに振り返る。
「今夜、飯でもどうだ?」
「・・・こんや?」

悠紀子がかすかに眉をひそめる。
目を細め、武士の言葉をもう一度頭の中で反芻し、その裏に何があるのかと探っているような表情をした。

「この暑さだろ、ちょっと暑気払い」
いつもの誘い同様、軽く言われて、悠紀子はうなずいた。
「んじゃ、場所、後からメールする」
「了解」

そうつぶやくと、悠紀子は武士に背中を見せた。
虚勢でもなくすっと伸びた背筋を眺めつつ、武士も自分のテリトリーに戻るべく踵を返した。

午後7時。
待ち合わせの小さな創作和食の店で、悠紀子は先に待っていた。
「こちらにどうぞ」と案内されたのは小上がりで、彼女は冷たいおしぼりで手を拭きつつ店内を見渡した。
初めて訪れる店だが、こじんまりとした内装の漆喰壁や白木の柱、天井板が清々しい。
琉球畳で囲まれたテーブルの下は堀こたつ式になっていて、1日中華奢なサンダルシューズに締め付けられていた足にはありがたい。

「ごめん、遅くなった!」

武士が駆け込んできたのは、約束の時間を10分ほど過ぎたころだった。
小さなブーケを抱えている。
悠紀子の向かいに座り、絣のお仕着せを着た仲居に、「生二つと今日のお任せコースを」とオーダーすると、やっと落ち着いたように悠紀子に向き直った。

「誘っておきながら、申し訳ない。でも、ちょっと西木にレクチャーしてた。
お前さんのアドバイスプラス僕の見解を」
「野々宮さんの見解?」
「そ。仕事にかこつけて何かとアドバイスするなんてもどかしいことせずに、好きなら好きだとさっさと告白しておけって」

あら・・・というように悠紀子が片眉を上げる。
武士がにんまりと口角の左端を上げた。

「そういうこと?」
「そういうこと」

呆れたように軽く睨んだ悠紀子を促すように運ばれてきたビールのグラスを掲げて「乾杯」と言いながら軽く飲むと、「プレゼント」。
テーブル越しにブーケを差し出す。

「何?」
あまりのさりげなさに逆に警戒心を強め、悠紀子はほんの少し目を眇めた。
「何って、見れば分かるだろ。花だよ。受け取れ」と、笑顔で促す。
このまま拒み続けるのもおとなげないと悟り、悠紀子が受け取ると、武士はまたにんまりと笑う。
悠紀子はブーケ越しに彼を睨んだ。

「何の魂胆?それとも下心?」
「人聞き悪い。課長が部下にプレゼントを渡してどこが悪い」

澄まして答える武士にまだ警戒心を募らせつつ、悠紀子は、自分が両手で掲げているブーケを思わず見下ろした。

「すごくいい香り」
「だろ?学名ステファノティス。英名はマダカスガルジャスミン」
「ジャスミン?だからこんなにいい香りなの?」

悠紀子はブーケを自分の目の高さに上げると、可憐な花たちをみつめた。
光沢のある濃いグリーンの葉の間から、純白の小さな花が零れるようにして咲いている。
ラッパ状に5枚の花弁を開く花は、朗らかに笑っているようだ。

「可愛いお花ね。でも、ジャスミンの花は・・・」
「ああ、本当のジャスミンとは種類が違う。原産地はマダガスカルで、甘くてエキゾティックな香りが似ているからマダガスカルジャスミンという名前がついたらしい」
「ふうん。でも、よく知っているのね」

感心・・・というよりも胡散臭げにブーケ越しに問えば、
「すべて花屋の受け売り。バラやかすみ草じゃ芸がないだろ。
何か今日にちなんだ花でブーケを・・・というオーダーに、花屋のスタッフが応えてくれたの。
でも、彼女たちもいろんなことをよく知っている。
この花についてのウンチク、つい聴き惚れてしまった」
「あら、珍しいわね。人の話なんてまるで聞かないあなたが」

悠紀子は、「何か今日にちなんだ」という武士の言葉をさりげなくスルーした。
彼もそれに気付きながら、それには触れない。

「よく言うよ、僕がお前さんの言葉にならない言葉、どれだけ聞いていると思ってるの」
さらりと返されて、また悠紀子はブーケ越しに武士を軽く睨んだ。
彼は素知らぬ顔をして、突き出しの冬瓜のエビあんかけを突いている。
それ以上、話が深みに入ることを恐れて、悠紀子も箸を手にした。


「ん・・・、うっ・・・あぁぁ」

ゆっくりと快感の水位が上がってゆく。
その水面が一気に溢れ零れる時を、悠紀子はひそやかな期待と恐れを持って待っている。
けれど、武士の唇も指も、そしてその欲望も、悠紀子を焦らしはぐらかすように急がない。
そのもどかしささえ、悠紀子を昂ぶらせてゆくことを知っているように。

悠紀子は、唇を割って溢れてゆく吐息に、唇を噛む。

まるでガラスでも抱(いだ)くように、武士はいつも優しい。優しすぎる。
霞みかけている意識の片隅で、悠紀子は怒りにも似た感覚でそう思う。

けれど、武士は変わらない。この1年。

1年前、単身赴任が解かれて妻の元へと戻る男を見送った後、雨の中を彷徨っていた悠紀子を、通りかかった武士が傘の中に強引に引き入れた。
武士は妻の元へ戻った男の後任として課長に昇進したばかりだった。

その夜、雨の雫に頬を濡らしたまま唇を噛みしめている悠紀子を、武士も黙って抱いた。
小さなホテルの片隅。

以来、二人はどちらかともなく誘っては、黙って肌を重ねている。
時には武士の部屋で、時には悠紀子の部屋で。
そして、今夜のように、シティホテルの一室で。

心を閉ざす悠紀子を労わるように、武士は決して無理強いしない。
重ねた肌の優しさに、悠紀子が自縄自縛している心を緩めるのを待つように、ただ黙って悠紀子を抱く。
けれど、彼女は知っていた。
その緩やかな時の中に、武士がひどく饒舌に語りかけてくることを。

その時間、武士の唇はくちづけするためにだけに存在するように、言葉は一切ない。
けれど、武士の指や唇や、否、体全体が、悠紀子に語りかけてくる。

その言葉に耳を澄ますことを恐れ、悠紀子はただ武士が与えてくれる快感にだけ溺れた。
一度彼の言葉を聴けば、もう後戻りできないと知っていたから。
だから頑なに彼の言葉に背を向け、幾度はんだを重ねようとも、距離を置く。
同僚たちが誰も二人の関係に気付かないのは、あまりにも二人が淡々としているからだった。
お互いの肌のぬくもりを知っている男女の間にある生々しさが二人にはなかった。

何よりも、去った男と悠紀子の関係があまりにも有名過ぎた。
最初から妻子のある男だと知りながらの関係は、悠紀子が有能な女性であればあるほど嘲笑と憐憫の対象になった。
1年たった今でも、悠紀子は妻子ある男と最初から割り切って付き合っていた冷めた女であり、男が妻子の元に戻っても背筋を伸ばして一人きりで立っていられる女だった。

まだ生温かな噂の陰になり、武士と悠紀子の冷めた関係に誰も気づかなかった。


徐々に引いてゆく汗が肌の表面の熱を奪ってゆく。
そそけるような感触を振り払うように、悠紀子は武士の腕の中から体を起こした。
そのつれなさに武士が首だけを枕の上に起こし、悠紀子の白い背中に視線を走らせる。
気配を知ったか、ベッドの下に落とされたバスタオルを拾い上げながら、悠紀子が口を開いた。

「野々宮課長・・・」
「止せよ。君は、行為の後、いつもあえて言うよね、『野々宮課長』って。
まだ僕の存在を身体の中に感じているくせに。
僕に興ざめさせて、距離を置くためにだろ。
見え透いた言葉は虚しいだけだってよく知っているくせに」

バスタオルを胸のあたりで抱えたまま、悠紀子の背中は動かない。
武士はその白い背中に腕を伸ばした。
そっと触れると、ふるりと震える。

「沖野。僕の言葉は、届かないか?」
「・・・」
「僕は、この1年、君の言葉を聴き続けてきたよ。
あの男が去った日、君は唇を噛みしめたまま僕に抱かれた。
君の体が慟哭しているのを僕は感じ取った。
僕がいくら抱いても、抱きしめても、君の慟哭は止まらなかった。
あの夜、君は黙ったまま泣き続けた。
1年たつ。
僕たちは、何度抱きあった?
僕はいつも君の体の中にあふれる声を聴き続けている。
でも、君は?
僕の言葉を聴いてはくれないのか?」
「課長」
「止せって言っただろ」

不機嫌に言い放つと、武士は悠紀子の体がスプリングの動きに揺れるほど乱暴にベッドから降りた。
悠紀子同様、ベッドの下に落ちていたバスタオルを拾い上げて下半身に巻くと、大きなストライドでバスルームに消える。

響く水音を聴きながら、悠紀子はクロゼットの前に立ち、手早く身づくろいをした。
できれば彼が出てくる前にこの部屋を後にしたい。
何かを聴かされる前に。
白いシャツブラウスを羽織ると、開いた胸元からふわりと甘い香りが漂った。

先ほど、武士がプレゼントしてくれた花の香りだった。
ブーケを胸元で持った時の移り香だろう。
波立つ心に絡みつく濃厚で甘い香り。

思わず振り返ってテーブルの上のブーケを見る。
この部屋に通された時、悠紀子の手の中から武士が取り上げ、小さな冷蔵庫の上に伏せてあったグラスに挿してくれた。
自ら洗面所に行って水も与え、テーブルの上に置くなり、武士は悠紀子を抱き寄せたのだ。


「花言葉、教えてやろうか、沖野悠紀子さん」

早く出てゆきたいと思っていたにもかかわらず、白い花の香りが鎖となってぼんやりと佇んでいた悠紀子の背後から、武士が声をかける。
わざとらしくフルネームで呼んだのは、先ほど、「野々宮課長」と言った意趣返しか。

「ステファノティスの花言葉はね、『傾聴する』。
相手に対して、耳と心を傾けて熱心に話を聴く・・・ってことだよ。
いつも後輩たちの訴え仏になっている君に、ふさわしい花だと思わないか」

背後からかけられる皮肉な口調に悠紀子は唇を引き結ぶ。

「お前さんのおかげで、営業部の女性社員たちの定着率が高いってこと、誰も気づかないのが不思議なほどだ。
お前さんは後輩たちの愚痴や相談事を嫌な顔も見せずに親身になって聞く。
自分の中にあふれる言葉は、堰き止めたままだ。
うちみたいなバカみたいに保守的な会社、33歳になるお前さんの同期は結婚や転職であまり残っていない。
残っている人間もほとんどが既婚者で、自分たちの生活で精いっぱいだ。
誰もお前さんの中で渦巻いている言葉を聴ける人間はいない。
・・・僕以外は」
「私は・・・」
「ああ、お前さんは何も言わない。口を開けば、当たり障りのない後輩のことや仕事のことばかりだ。
だから、僕は、君を抱いてきた。
君の中にある切ない言葉を聴きたいがためにね」

「君」と「お前さん」をうまく使い分けながら、武士は静かに悠紀子に迫ってくる。
けれど、
「野々宮課長」
背中越しの冷めた言葉に、武士は裸の肩をすくめてみせた。
その気配を悠紀子が十分感じ取れるほどに。

「沖野悠紀子。こっちを見ろよ。僕を見ろ」

頑なな肩が揺れる。

「沖野、僕の言葉を聴け」

それでも振り向けない悠紀子に焦れたのか、大きな手が華奢な肩を掴み、乱暴に振り返らせると、そのまま裸の胸に抱きこんだ。

「な・・・」
「1年前、あの夜、僕が偶然通りかかったと信じているのか、今も?」
「・・・」
「それなら、お前さんはかなりおめでたい人間だよ。
あの男と一緒にいた3年間、僕がどれほど嫉妬に苛まれていたか、一晩中でも聞かせてやろうか。
お前さんなら、親身になって聞いてくれそうだしな」
「課長」
「うるさいよ、課長、課長って。僕の名前は課長じゃない」
「・・・野々宮課長」

苛立たしげな武士をさらに煽るように、悠紀子が執拗に繰り返す。
それが自分を拒絶する意図を露わにしていることに気付き、武士は、腹立たしさに腕の中の女を砕きたくなる。
けれど、それも一瞬。

かすかに息を吐くと、悠紀子の耳元でささやく。

「結婚しないか、悠紀子」

まだシャワーの余韻にしっとりと熱を帯びた胸の中で、悠紀子が抗うように身じろぐ。
けれど、武士は力を緩めない。
しっかりと胸に抱きこんだまま、さらに力を込める。

彼女の体から、ステファノティスのエキゾティックな香りが立ち上る。

「結婚しよう、僕と」。
「バカなこと・・・」
「冗談でも嘘でもない。僕と結婚してくれ、沖野悠紀子」
「野々宮課長」
「・・・ベッドの中では、一度も僕のことを課長と呼ばない。
あの男の時は、呼んでいたから?
3年も君を気儘に翻弄しながら、君が生を受けた感謝すべき日に別れてゆくような男をなぜ忘れない?
ベッドの中で名前を呼ばせることなく、役職で呼ばせることで、自分が妻子持ちの上司だってこと何度も君に確認させていたような男に、なぜそれほど執着する?
雨の中を何時間も彷徨って泣き続けて、それで、自分の気持ちに折り合いをつけたんじゃなかったのか?
僕に抱かれることで、あの男の面影を払しょくしていたんじゃないのか?
僕では・・・物足りないか?
・・・体を離せば、君はいつも冷たい声で言うんだよね、『野々宮課長』って。
それが君の自分に対する戒め?それが楽しいの?君は?」

何とか彼の呪縛から逃れようと抗えば、さらに抱きこまれて息が詰まる。

「僕の話を聴け。沖野悠紀子。
なぜ君は僕に抱かれてきた?なぜ黙って僕に抱かれてきた?」
「同情・・・なんかいらない」

武士が嘲笑う。

「同情や憐れみで男が勃つと思うな」
「・・・あの人・・・は、抱いたわ、私を」
「あれは純粋な欲望だよ。お前さんみたいに有能で美人で優しい女を征服して好きなようにいじりたいというただの欲望だ」

わざと吐いた露悪的な言葉に、案の定、悠紀子は身体を固くこわばらせた。
武士はその体をほぐすように優しく抱きしめる。

「お前さんはそんな女なんだ。お前さんを前にして欲望に溺れない男がいたらお目にかかってみたい」
「なら・・・、あなたも欲望だわ、ただの。野々宮課長」
「イイ女に対する欲望と、愛する女に対する欲望の、その区別もつかないのか、沖野悠紀子。
それで、あのつまらない男を愛していたと言い張るなら、お笑い草だよ」

ひくりと武士の腕の中で悠紀子の体が揺れた。

「愛している」
「・・・」
「聴こえなかった?」
「・・・」
「僕の声は、まだ届かないか?」
「野々宮・・・」
「『課長』はいらないぞ。僕には『たけひと』という親にもらった立派な名前がある」

ほんの少し力を緩め、ボタンが二つ外された胸元にくちづける。
悠紀子の体が、またひくりと震える。

「ステファノティスの他の花言葉、教えてやろうか」

胸にささやくほとんど息の言葉は、ぞくりと背筋に直接響く。

「清純、清らかな祈り、二人で遠くへ旅を」

そのまままたベッドに崩れ落ちる。

「僕の言葉を聴け」

はだけられたブラウスが肩から抜かれる気配。

そのまま、また意識がかすむ。


耳元でかすかにベッドが軋み、胸に添わせた悠紀子の背中が身じろぎする。
かすかに怯えるように。

「ステファノティスは、純白の花とこの香りが故に、ウエディングブーケに使われることも多い。
だから、和名はハナヨメバナ。
学名や和名に比べて、和名は泥臭いな、響きもいまいちだ。
それでも、君にふさわしい」
「・・・あなたの御高説は、傾聴するに値する・・・ことにしておくわ」
「んじゃ、ウエディングブーケは、ステファノティスに決まりだな」
「饒舌過ぎる男はお断りよ。それからうぬぼれの強い男もね」
「了解。しっかり胸に刻んでおくよ。
・・・誕生日おめでとう、悠紀子。
愛している」




7月26日の誕生日花:ステファノティス
           花言葉は、傾聴する、清純、清らかな祈り、二人で遠くへ旅を、幸せな花嫁、うぬぼれや




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