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心、こぼれて(完結)

心、こぼれて 最終話

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最終話


終業式の日、尚美はすべてが終わる時間を見計らって登校した。
クラスメイトとの最後の別れを惜しみ、神妙な顔をしている涼太の手を引いて担任や教頭に最後の挨拶をし、必要な書類をすべて受け取る。

職員室に浩一の姿はなかった。
電話をすると言っていた浩一だったが、あの夜、電話はなかった。
幾度も着信拒否にしようとスマートフォンを手にしながら、結局、尚美にはそれができなかった。

毎夜、理彦は遅い。
引継ぎに時間がかかっているのだろう。

毎夜、疲れて帰ってくる夫を労わり、その抱擁に熱い吐息を漏らすというのに、どうして心は着信拒否のボタンを押すのを拒むのか。

後ろ髪を引かれる思いで校舎を振り返ると、涼太も同じように自分が学んだ教室を振り返っている。
転校をこちらが気抜けするほど素直に受け入れただけに少々不安はあったのだが、やはり実際に別れとなると、様々な想いが小さな胸にあふれたのだろう。

「涼太」
小さな声で促すと、「うん」とうなずいて、校舎に背を向けた。

簡単な昼食を済ませると、涼太を伴って、クラスの男の子だけの送別会を催してくれるお友達の家に向かう。
みんなに渡してもらうささやかな文具セットと、心遣いへの感謝を込めて菓子折りを渡して頭を下げる。
相手は、笑顔で快く子どもたちの面倒を見ることを請け負ってくれた。
その背後に慎平の姿をみつけ、尚美は思わず彼女の顔を見た。

慎平とはクラスが違うから、ここにいるはずはなかった。
けれど、「涼ちゃんが慎平君ととても仲良くしていたことは息子からも聞いていました。最近、あまり遊んでいないとも。でも・・・、最後ですしね。滝沢さんにお話をして、今日、来てもらったんです」と、言ってくれた。
噂を聞いたのか、それとも、雅恵が話したのか。
真相はわからないが、その顔には、事情は分かっているという表情が浮かんでいる。

慎平も涼太もお互いにどことなく面映ゆい顔をしているが、嬉しそうに目が笑っている。
その目を見て、慎平が本心から涼太を遠ざけていたわけでないことを確信する。
尚美は、慎平に笑いかけると、また彼女に深々と頭を下げることしかできなかった。
「本当に、ありがとうございます」と。

翌日、尚美の両親が笑顔でやってきた。
理彦の栄転を喜び、そして、自分たちのそばに娘夫婦が戻ってきてくれることを喜んでの満面の笑顔だった。
理彦とは会えなかったが、わざわざ自分たちのそばに居を構える決心をしてくれたことへの心から感謝を尚美にことづけて、涼太とともに社宅を後にした。


涼太もいなくなってがらんとした部屋の中を、尚美は見渡した。
あと数日で後にする部屋だった。
壁に沿って積み上げた段ボールや空っぽになったサイドボードや書棚が、自分に残された時間の切なさを教えてくれる。
そして、それを見透かしたように、浩一からの電話が来た。

―――いつ?

どこで電話を持っているのか、幾重にも抑えつけた想いがかすれさせた声に、心が波打つ。

いつ。

そう、昔、その言葉を幾度お互いに掛け合っただろう。
今度はいつ会える?
その祈りにも似た想いに心は震え、生きる糧でもあったのに。

「コウ」
―――ナオ

胸がうずく。
決心などつくはずがない。

最後なのに。
最後だから。

どうしてこんな形で再会し、そしてすぐに離れるのか。
ただ切ない想いをし、心乱される日々を、誰がいったい何のために仕組んだのか。
その答えをお互いに知るすべもないまま、向かい合っている。

「・・・電話、します」
―――本当に?
「はい」

お互い先に電話を切ることができず、お互いの息遣いだけを心に刻む。
結局、尚美が先にオフボタンを押した。



朝の職員会議で、近藤涼太と鮎沢和彦の名前が「転出」の追加として読み上げられた時、浩一は一瞬、教頭の顔を見返してしまった。
小さいとはいえニュータウンなので、学期ごとに入れ変わる生徒の数は少なくはない。
実際、浩一のクラスにも転校してゆく生徒、転入してくる生徒もいて、その煩雑な手続きには心を砕いた。
けれど、期末間際になって突出した涼太の転校は、浩一には青天の霹靂だった。

天罰なのかという苦い思いが胸をよぎり、それを自嘲の笑いで受け止める自分がいる。
尚美に電話をしようかと幾度も迷い、けれど決心はつかなかった。
その夜、絢奈はこちらが訝るほどに浩一の顔色を窺っていた。
稲垣が早速知らせたことは自明だった。
稲垣を侮蔑しながらも、絢奈は彼女からのメールを待っている。
まるでそこに、自分と夫の未来の答えがあるかのように。

自分に否があるというのに、浩一はそんな絢奈を哀れに思っていた。
いつも無邪気なほど明るかった絢奈に、そんな表情をさせた自分を呪いながらも、尚美がいなくなってしまうという事実の前におろおろしている心のありどころが、自分でもわからない。

終業式前の懇談会期間中、空き時間があれば廊下の窓から下を眺めていた。
必ず尚美は来る。
懇談会というよりも最後の挨拶とこまごまとしたものを持って帰らなくてはいけないからだ。
そして、尚美が下足場からグランドに出てゆくのを見つけた。
幸運だと思った。

慌てて階段を駆け下り、渡り廊下から飛び出す。
浩一の目の前で、尚美は一人息子と何か言葉を交わしていた。

涼太は元気いっぱいにグランドへと戻っていったが、母親の横顔に不憫さがにじむのを浩一は胸が痛む思いで見つめた。
彼女が母親であり、誰かの妻であるのは、まごうことない事実なのだ。

そして、呼び止めた尚美は硬い表情のまま言葉を濁した。
けれど、その目が潤んだのを浩一は見逃さなかった。

抱きしめてしまいそうになるのをとどまった自分を褒めるべきなのか?

けれど、その夜、電話はできなかった。
浩一同様、期末で多忙を極めているはずの絢奈が、浩一を迎えに学校までやってきたからだった。
それは、終業式まで続いた。

募る焦燥感にあぶられながら、やっと尚美に電話ができたのは、終業式の翌日。
チャンスは幾度もあったのに、絢奈の視線を思い出すと、後ろめたさだけが積み重なっていった。
最後なのだ、これが最後なのだと自分にも言い聞かせ、絢奈の視線が蘇るたびに首を振った。

終業式翌日の親子清掃も無事終了し、最大の功労者である美化委員長の鮎沢が保護者や教職員に盛大に見送られて学校を後にした。
夏休み初日のイベントが終わると、学校は風のない湖面のような静けさに包まれた。
前日までの喧騒を思うと、不思議を超えて恐ろしささえ連れてくる静けさだった。

その中で浩一は誰もいない中庭に立った。
親子清掃で草抜きをしたはずだが、雑草はまだらに抜かれただけで青臭さだけが漂っている
その真ん中に立ち、青い空を見上げながら尚美の声を聴いた。

彼女は、「電話をします」と言った。
それを信じるしかなかった。



大学時代からの親友、徳永由利音は、転勤の話を聞いて「ご栄転、おめでとうございます」といった。
そして、そのあと、「よかった」と、ため息のように告げた。

何が「よかった」のか、言われなくてもわかっている。

そう、よかった、のだ。

涼太のいない夜。
理彦は残業続きで、今夜も帰りが遅い。
一人きりでいると、想いはまたさまよい始める。
また『鳥越隆史展』のチケットを取り出し、そして、昔の写真を眺める。
浩一の笑顔は永遠にそこにある。
尚美の横に。


翌日、彼が学校にいることを祈りながら電話を掛けた。
「今度の金曜日、午前10時に文化会館前で」と。
―――引っ越しは?
「翌日の土曜日に。金曜日は夫はまだご挨拶回りで忙しいから」
―――わかった。金曜日、に。待っている
「はい」



鮎沢は、最後のご奉公ともいえる親子清掃を済ませると、翌日には荷物を搬出した。
とうとう夫は本社に行ったままだった。
鮎沢は一人ですべての手配をし、一人で荷造りをして引っ越していった。
「先に向こうで待っているから」と手を振って社宅を後にしたが、転居先は社宅ではない。
夫同士は仕事で同じプロジェクトにかかわるとはいえ、妻同士はもう会うことはないとお互いにわかっていたが、尚美も「また、お会いしましょうね」と見送った。

尚美も、社宅内のご挨拶回りを済ませた。
粗品を手に、「お世話になりました」と頭を下げて歩く。
送別会の代わりにと、数人の連名でブランド物のハンカチセットを頂く。
もちろん、そこに滝沢の名前はない。

尚美はいったん自宅に戻ると、手帳と菓子折りを持って3階へと向かった。
雅恵は家の中にいた。
ドアインターフォン越しに来訪を告げても、なかなかドアは開かなかった。
雅恵の逡巡が手に取るようにわかって尚美も躊躇したが、けれど、ここで帰るわけにはいかなかった。

やっとドアが開いた時、尚美は暑さだけが理由ではない粘つく汗をぬぐっていた。
三和土の向こうで、雅恵が自分の身を守るように陽平を抱きしめている。

尚美は一歩だけ玄関の中に入り、ドアは開けたまま深々と頭を下げて、「この3年間、本当にお世話になりました」と、告げた。
何も答えない雅恵の顔がゆがみ、かみしめた唇が震え始める。

謝罪など必要なかった。
今から自分が告げる事実が、雅恵にとって免罪符になることだけを祈る。

尚美は手に提げていた菓子折りのペーパーバッグを雅恵の足元に置くと、手帳から写真を取り出し、差し出した。
雅恵が眉をひそめ、陽平を抱いたままその写真を見下ろす。

それは、全国テニスサークル大会に出場したときの浩一の写真だった。
満面の笑みで尚美の頬に口づけをしている。
尚美ははにかみながらも笑っていた。
若い幸せにあふれた写真。

最初は怪訝な表情で見ていた雅恵は、はじかれるように尚美の顔を見た。
尚美は、ゆっくりとうなずいた。

「田中先生と私は、大学時代に恋人同士だったの」
雅恵が目を見張る。
尚美は自分も改めてその写真を見つめた。
なんと美しいお似合いの二人だろう。

「いずれは結婚すると思っていた。
でも、お互いに就職して遠距離恋愛になって、・・・そして、事情があって別れてしまった。
以来、10年以上、連絡を取り合ったこともなかったのに、何の因果か、こんなところで再会してしまった。
信じられなかった。
どうして今頃って思った。
そのうえ、二人とも広報にかかわるようになって、運命のいたずらってこういうことを言うのかと思ったわ。
・・・嫌いになって別れたんじゃない。
お互いに中途半端な気持ちのままだった。
だから、・・・今もなお、惹かれていく自分が・・・、怖かった」

だから、ね、と尚美は顔を上げる。

「滝沢さんが私と田中先生について、みんなに言ったこと、あながち嘘じゃなかった。
もちろん、夫に顔向けできなくなるようなことは一切してない。
それだけは誓って言える。私は、近藤尚美なんだもの。
でも・・・、私は、田中先生が好き、きっと、今も。
広報委員として学校へ行って、田中先生と一緒に作業をするのが嫌だったとは言わない。
滝沢さんは、私のことを人がいいんだからと呆れながらも褒めてくれたけれど、絶対に下心がなかったと、嘘は吐けない。
だから・・・、だから、あなたは間違っていなかった。
あなたは、嘘つきじゃない、面白がって人を貶めるような噂話をする人じゃないの。
だから、今まで通りの滝沢さんでいて。
面倒見のいい、あなたでいて」

写真を手帳に丁寧に挟み込むと、尚美はまた頭を下げた。

「本当にありがとうございました。どうぞ、お元気で」

ドアを閉じようとした刹那、「近藤さん」と、初めて雅恵が口を開いた。
「私が・・・、今の話を黙っていると?」
尚美は振り返った。
雅恵の力が強すぎるのか、陽平が身をよじって母親の腕を逃れようとしている。
「・・・私は、あなたに田中先生との関係を告白することができなかった。
それは、多分、心のどこかでさんざんあなたのお世話になっていながら信じ切れていなかったからだと思う。
・・・私はもうこの社宅を出ていくのだから、あなたの好きにしていい」

雅恵はまだ何か言ったのかもしれない。
けれど、それを聞く前にドアが閉じた。

金曜日の朝、8時に引っ越し業者の4トントラックが社宅の前に横付けした。
次々と搬出されてゆく段ボールや家具を、尚美は感慨深く眺めていた。
この社宅で過ごした3年間。
涼太は小学生になり、少しだけたくましくなった。
最後の3カ月だけは、心揺れるような日々だったが、それ以前は楽しく呑気に過ごしてきたと思う。

1時間半後、荷物の搬出が無事終了すると、トラック達は転居先へ向けて出発した。
後に残った理彦と尚美は、見送りに出てくれた人たちに改めて別れを告げ、転居先ですぐに必要になる掃除道具などをバックシートに積み込んだ車に乗った。

駐車場を後にした車が社宅の敷地から出るためにいったん停車した時、尚美の視界に雅恵の姿が映った。
陽平と手をつなぎ、生け垣の陰に立っている。
尚美は窓のこちらで頭を下げた。
顔を上げたとき、雅恵はまだ深々と頭を下げたままだった。
それは、別れの挨拶とでも謝罪の意味にもとれた。
車は走りだし、尚美はもう振り返らなかった。

「あ、まずい」と、夫が言ったのは、高速道路へと入る手前だった。
彼はナビをのぞき込んでいる。
「事故だ。高速が渋滞している。通行止めになっているのかもしれない。仕方ないや、下道を走るけれど、いいよね?」
確かに高速道路が真っ赤に染まっている。
事故渋滞であることが尚美にもわかった。

尚美はうなずいた。
反対することはできなかった。
尚美も免許を持ってはいるが、ほとんどペーパードライバーに近い。
これからほとんど1日がかりのドライブは、夫にかかっているのだから。

社宅を出て以来、尚美の口数が少なくなったのは、感傷に浸っているせいなのだと夫は思いやってくれたようだった。
だから、あえて黙って運転している。
最後は心ない社宅の人間関係に悩むことになったとはいえ、やはり様々な思い出がこみ上げてくるのだろうと。

尚美は夫の思いやりに甘えた。

車は国道を走る。

国道は県庁所在地に入り、昔の城跡を利用した城山公園、裁判所、合同庁舎が立ち並ぶメインストリートに入る。
尚美は前だけをみつめていた。

目の前の信号が黄色になり、理彦は危なげなく車を止めた。
尚美は助手席のサイドミラーをのぞき込んだ。

そこに映るのは、アールを描く石段の上に建つ赤れんがの文化会館だった。
夏休みだというのに行き交う人の姿はまばら。
そんな視線さえ避けるように、クラシカルな円柱の陰に立つすらりとした人影。
思わず左手が動きそうになり、尚美は右手で抑えた。
ミラーに手を伸ばせば、触れられるかもしれないという幻想を断ち切る。

やがて、柱を離れた人影がゆっくりと背を向ける。
その手から、小さな紙片がこぼれてゆく。

車の時計は午前11時すぎ。

尚美は前を向いた。

あふれる涙とともにこぼれきった心はここに置いてゆく。

もう振り返らない。

                   了



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