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心、こぼれて(完結)

心、こぼれて 24

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24


翌日の朝、夫は2時間ほど遅刻をすると連絡し、涼太の相手をしていた。
昨夜同様、嬉しさを隠しきれない一人息子は父親にまとわりついていたが、「パパと話をしよう」という言葉に、神妙な顔をして前に座った。

理彦は、「すまないな、涼太」とまず謝り、それから転勤の話をした。
涼太には転校というつらい話が待っている。
3年前、幼稚園の転園を経験してはいるが、小学生となり自分なりのルールや世界を持った今、転校をすんなりと受け入れるには抵抗があるはずだ。
けれど、涼太は、父親の話を黙って聞いた後、深くうなずいた。

理彦の背後から涼太の顔を見ていた尚美は、涼太の表情の中に、一つの決心を見て取った。
尚美に似て、どちらかと言えば線の細い子だが、ここ数日で表情が変わってきた。
母親が不安に揺れた挙句倒れ、自分自身も一番親しかった友人にやんわりと拒絶されたことから、彼の中で何か大きな変化があったのかもしれない。
彼は彼なりに今の状況を考え、理解した上でうなずいたのだ。

理彦も涼太の中に、10日前まではなかった何かを感じ取ったのかもしれない。
転校を受け入れた息子の両肩を抱くと、「涼太、大きくなったな」と感慨深げにつぶやいた。
息子は照れくさそうに、にっと笑うと、「ママ、ご飯」と尚美を見上げた。
理彦も振り返ると、「俺も!」と。
尚美は「はいはい」と笑いながらキッチンに入って冷蔵庫を開けた。
こぼれそうになる涙を誤魔化すために。

その日、涼太が学校へ行った後、尚美と理彦は今後のスケジュールを話し合った。
とにかく20日しかない。
10日後、涼太は夏休みに入る。
幸いなことに、朝イチで連絡をした尚美の両親が涼太を迎えに来てくれるという。
旅行がてらこちらへ来て、涼太を伴って2泊3日で観光地を巡り、そのまま実家へ連れ帰ってくれることになった。
父はまだ定年前だが、有給休暇を使ってくれるという。
理彦が急な転勤になった理由を話したことから、両親も事情を汲んで、というよりも実家のそばに戻ってくることを喜んで協力を申し出てくれたのだ。

転校や転居のための手続き、引っ越し業者への連絡、市役所や郵便局での手続きなど、すべきことは山ほどあった。
パートも辞めなくてはならない。
さほど引継ぎが必要ではないとはいえ、電話だけで辞められるものでもなかった。
理彦も会社へと出かけた後、尚美はすぐに小学校へ電話を掛けた。
転校することを伝え、それに伴う手続きについて教えてもらう。
各方面への連絡だけで午前中はつぶれた。

もちろん、広報委員長の吉川にも連絡した。
尚美の話に一瞬絶句し、そして、「お疲れ様でした。近藤さんがいなくなるのは広報委員会にとってはかなりの痛手になるけれど、仕方ないわよね、転勤なんだもの。でも、本当にありがとうございました。広報だよりは近藤さんのおかげで発行できたようなものだもの。次に行っても頑張ってね」と、ねぎらってくれた。
彼女は夏休み明けから広報委員会に顔を出すという。
「広報委員会で送別会を」という申し出は、「お気持ちだけ。皆さんによろしくお伝えください」と辞退した。

電話を切って10分後には、広報LINEグループに吉川のメッセージが入ったことには笑ってしまった。
「お疲れ様でした。お元気で」というコメントが他の広報委員から次々と入ってきて、尚美はまとめて「ありがとうございました」と返信する。
いちいち返信しているヒマなどない。

鮎沢にも電話をすると、向こうも同じような状況にあった。
あちらこちらへの連絡と手続きで忙殺されているという。
ましてや鮎沢の夫はまだ本社に出張中だ。
鮎沢が孤軍奮闘しているのは手に取るようにわかる。
改めてお礼を言うと、彼女のほうが恐縮したように口ごもった。

―――おせっかい、ごめんなさいね。でも、ご主人も知っておいたほうがいいと思ったの
「とんでもない、鮎沢さんには感謝しています。本当にありがとうございます」
―――冗談じゃないくらいに忙しくなっちゃったけれど、お互い頑張りましょうね
「はい。私なんかより鮎沢さんのほうが大変ですよね。美化委員会の人たちも大変でしょうね。
やり手の委員長がいなくなっちゃうんだもの」
―――あはは。大丈夫よ、美化委員の仕事ってさほど大変じゃないし、副委員長がしっかりしているから。
私も夏休み初日の親子清掃が最後の仕事になるわ。なんかしみじみしちゃうわね

寝耳に水だった美化副委員長の慌てる顔が目に浮かぶ。
多分、鮎沢におんぶにだっこでのんびり構えていたはずだから、今頃、冷や汗をかきながら今後を憂いていることだろう。


数日が過ぎた。
尚美は荷物の整理に追われ、土日も涼太や理彦とともに片付けに忙殺された。

鮎沢と理彦の転勤は当然のことながら社宅中が知るところとなり、「鮎沢さんと近藤さん一緒に」と送別会の申し出もあったが、二人は「お気持ちだけで」と丁寧に断った。
そんな時間さえ惜しいというのが本音だが、自分たちにまつわる噂話を楽しんでいた人もいると思うといささか気持ちも軋む。
社宅を出ていくときは、それぞれ挨拶に出向くつもりだった。

雅恵からは何のコンタクトもなかった。
社宅内ですれ違うこともなかった。
陽平を遊ばせている姿を見ることもなく、慎平の声さえ聞こえなかった。
尚美に出会うことを避けているだけでなく、周囲の蔑む目にも耐えられないのかもしれない。

夏休みを1週間後に控えた日、蒲田が自宅のリフォームが終了したということで社宅を出ていった。
驚いたことに送別会らしきものは何もなかったという。
みんな、蒲田の顔色を窺いおべっかを使っているものと尚美は理解していたのだが、勘違いだったようだ。

鮎沢は、「当然よ」と断言した。
「みんなそれほど愚かじゃない。いずれは自分に降りかかってくることを懸命な人ならわかっているものよ」と、あっさりと言い放った。
尚美はうなずくことしかできなかった。

週明け、尚美は学校へ向かった。
最後の懇談会のためだった。あと3日で終業式になる。
保護者はこの時に1学期の子どもたちの様子を担任から聞き、ときには子どもたちよりも先に成績表を見せられることもある。
様々なプリントも渡され、それぞれのお道具箱や楽器、作品類を親が持ち帰るクラスもあった。
それに加えて、尚美は転校先の教育委員会や学校へ提出する書類をもらっておく必要があった。
あらかじめ予想して大きめのエコバッグとペーパーバッグを用意していったが、結局、それでも足らずに担任の教師からもう一つペーパーバッグをもらう羽目になった。

終業式の日にも改めて挨拶に来るとはいえ、念のために職員室で校長や教頭にも挨拶をする。
懇談会の最中なので職員の姿は少なかったが、広報委員として学校に来る機会も多かった尚美を知っている人間も多く、尚美はあちらこちらで「お元気で」と声をかけられた。

両手に荷物を抱え、昇降口からグランドに出ると、涼太が駆け寄ってくる。
汗をびっしょりかいて、けれど、はじけるような笑顔だった。
涼太が転校するということで、以前にもましてクラスの友達が親しく寄り添い、遊んでいるようだった。
終業式の前日にクラスではお別れ会をしてくれるという。
そのうえ、終業式の終わったあとで、男子だけのお別れ会を自宅で持ちたいと申し出てくれた親がいた。
「うちも転勤族です。その間にお家の片づけをしてくださいね」という申し出を、尚美はありがたく受け入れた。

涼太は尚美の「一緒に帰る?」という言葉に大きく首を振り、「まだ遊んでる!」と元気よく答えると、また友達の中に戻っていった。
その背中を一抹の痛ましさとともに見送り、自転車置き場へ向かおうとした尚美の背後から、「近藤さん」という声がかかる。
振り返らずともわかる。

この数日、多忙を理由に心の隅に押し込めていた面影。
今、目の前にその幻が生身の姿で立っていた。
その額から汗が流れ落ちる。
汗をぬぐうこともせずに、浩一が、一歩、尚美に歩み寄る。
尚美は動けない。

両手に思いバッグをぶら下げた、こんな不格好なまま相対したくはなかったのに。

今、学校内には多くの人間が行き交っていた。
懇談会の真っ最中だ。
教職員だけでなく、多くの保護者が教室を出入りし、グランドには子どもたちの歓声が響き渡っている。

けれど、浩一はためらいはしなかった。
一歩、また一歩と尚美に近づく。

「広報委員、お疲れ様でした」
よく通る声がそう告げる。
二人の傍らを行き過ぎる保護者や生徒たちは、何ら疑問には思わないだろう。
彼の声はねぎらいに満ち、深々と頭を下げたが、上げた顔には微笑はなかった。
眉間には細い苦悩が刻まれ、尚美は、刹那、声を失った。

「いつ?」
先ほどとは打って変わってひそめた声が、耳を打つ。
「今月末」
「・・・そんなに早く」
「懇談会は?」
「今、空き時間。保護者も忙しいから」

先ほど彼は職員室にはいなかった。
尚美が昇降口から出てくるのを教室から見かけ、階段を駆け下りてきたのかもしれない。
彼が涼太の転校を知ったのはいつだったのか。
時期が時期だけに、転校の連絡を受けると、教頭は職員室のホワイトボードにすぐに転校生の学年と名前を記入することを尚美も知っていた。
転校の連絡をしてからすでに1週間。
電話番号を知りながら電話をかけてこなかったのは、彼の葛藤の表れなのだろうか。

「お世話になりました。どうぞお元気で。失礼します」
自分の声音が動揺していないことを祈りながら、尚美も深々と頭を下げた。
両手に下げた荷物が重い。
その重さに甘えて、顔を上げたくはない。

「いつ?」
彼の顔を見たくないのに、また、浩一が尋ねる。焦りにも似た声で。

けれど、その答えは先ほど言ったではないか、今月末だと。

怪訝な思いで彼を見上げると、浩一が苦し気に眉の間をひそめた。
言葉数がシンプルなのは、周囲に行き交う人間の耳を意識しているからだ。
電話では尚美が拒否するかもしれないと思ったのか。
だから、あえて人目のあるここで、グランドの片隅で尚美を呼び止めたのか。

尚美は浩一の表情の中に、浩一が本当に聞きたい言葉を読み取った。

「いや・・・、行かない」
「最後だ、もう。最後に・・・」
「行けない。私・・・」
「頼む」

涙が溢れそうになって、尚美は大きく首を振った。
両手は荷物でふさがっている。
一度溢れてしまえば、涙をぬぐうのは、浩一の指になってしまう。

どうしてこの人に心が揺さぶられるのか。
苦くて辛かった思い出が、どうしてこれほどに切ない想いを寄り添わせている?

誰よりも自分を愛してくれる夫を尊敬し、頼り、たった一人の子どもを自分の命よりも愛しく思い、3人の家庭を何よりも大切に思っている。
夫を目の前にすると、この人以外いないと体も心も理解するのに、なのに、昔の恋人の視線を振り切れない。

妻が社宅内の軋轢に苦悩していると知って、無理を押して仕事を処理し、帰宅してくれるほどに深い夫の愛に号泣したいほどに心震えるのに、昔の恋人の声がその扉を切なく叩く。

「さようなら、どうぞお元気で」
先ほどと同じ言葉を繰り返し、彼に背を向けた尚美は、あ、と足が止まる。
視線の向こうに雅恵が立っていた。
距離はあったが、今、そこを通りがかったというよりは、二人の様子を見かけて立ち留まったという風情。

尚美は、かすかに狼狽した後、自分の表情を気取られないように唇を引き締めた。
目が潤んでいるのを誤魔化すためにも、目に力を入れる。
それが、期せずして雅恵を睨みつけたようになったのは、幸か不幸か。
雅恵は尚美の顔を見て、一瞬、怯んだような顔をして先に視線をそらした。
そして、陽平の手を強引に引いて建物の陰に走りこんでいった。

「電話する」

浩一の声を背中に聞きながら、尚美は自転車置き場へと向かった。

返事などできない。
返事はしない。
食いしばった唇が開けば、どんな言葉でも、必ず、「待っている」の同義語になってしまう。


重い自転車を引きずりながら何とか自宅に戻ると、尚美は、学校から持ち帰ったペーパーバッグをフロアに投げ出した。
その前にぺたりと座り込む。
フローリングは生温かく、コットンパンツを通して汗がフロアに滲みそうだ。

尚美はのろのろとペーパーバッグやエコバッグの中身を取り出すと、もう必要のないもの、転校先にも持っていくものに機械的に分けてゆく。
涼太の作品は捨てるに忍びなくて、結局、1年生の時の作品集と一緒にもっていくことにした。
それだけでも少々かさばる荷物になるが、構わない。

整理が終わると、尚美はふらふらと立ち上がった。
振り返った部屋はあらかた片付いている。
理彦は梱包も引っ越し業者に頼むと言っていたが、その必要はない。
合い見積もりも搬出と搬入だけで依頼して、即日、その中の一社と契約を済ませた。

転居も転校の準備も着々と進んでいる
理彦の引継ぎも予定通りに進んでいるという。
今度は本社からこちらに出張して、引継ぎの継続をするというし、公私ともに何の滞りも懸念もない。

なのに。

尚美は、クローゼットの中から古い段ボールを引き出した。

転勤を夫に告げられて以来、一度も浩一を思い出さなかったと言えば嘘になる。
忙しさに取り紛れて、彼の面影を追う余裕がなかったのは幸いだった。
荷物を取捨選択しながら、彼のミニアルバムを幾度も捨てようと思った。
けれど、結局、まだこの段ボールの底に忍ばせてある。

先日、浩一から渡された『鳥越隆史展』のチケットも、昔のチケットと重ねてアルバムに挟んである。

それを今、取り出そうとしてためらう。
もし、今、手にしてしまえば、抱きしめてしまうか、そのままゴミ箱に捨てるか、どちらかでしかない。

どれほどぼんやりしていたのか、「ママ!ただいま!」という涼太の声に、尚美は、はっと我に返った。
振り返れば、まるで水でも浴びたように汗まみれになった涼太が、怪訝な顔をしてベッドルームをのぞき込んでいた。

「どうしたの?エアコン、つけていい?」
そうか、エアコンさえつけないまま、想いにふけっていたのか。

今さらながらに自分の愚かさをかみしめ、尚美はのろのろと腰を上げた。




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