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「12月の花」
8日 寒椿

シシガシラの守る道(前編)

 ←師走だよ、おい! →シシガシラの守る道(中編)
このお話は、今日、12月8日の誕生日花にまつわるお話。
久しぶりに書いた誕生日花シリーズです…。

今日お誕生日を迎えた皆様、おめでとうございます。

ちょっと急ぎ足で書いたので、誤字脱字、前後でつじつまの合わないところもあるかも…。
おいおい訂正修正していきますので、今日はこのままで。
後編は明日以降に(^^♪

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夜の道を急ぐ足が、ふと止まる。
初めての道だからスマートフォンのマップを頼りに歩いていたけれど、予想通り迷ったような…。

そんな心細くて不安な気持ちに、そっと寄り添ってきた心地よさ。

ああ、香りだ、と、井上香也子は傍らを見上げた。
古い家が立ち並ぶ住宅街。
最近では珍しくなった生垣でぐるりと家を囲む外構が並んでいる。
香也子が今にも通り過ぎようとした家も、そんな外構を取り入れていた。
ぐるりと家の門前を囲むコンクリートの低い壁の上をびっしりと覆う濃緑の葉群れ。
その中に濃いピンクの花があちこちから顔を出している。

香也子の足を止めたのは、その花がひそやかに放つ香りだったようだ。
香りというにはかすかで、普段なら気づかなかっただろう。
ふと足が止まったのは、何かの予感だったのかもしれない。
香也子は生け垣に歩み寄った。
八重十重に重なる薄紅色の花びらが、外構を照らす常夜灯に浮かび上がる。
一見、椿に似ているけれど、一枚一枚の花弁が椿よりも可憐だし、香也子の知っている椿よりも花びらの数が多い。

「山茶花、かなぁ」
なんとなくつぶやいた時、背後から、いきなり「シシガシラです、それ」という声がかかり、香也子は思わず飛び上がった。
見知らぬ街、晩秋の午後8時はすでに行き交う人もまばらで、痴漢かと警戒しても誰も責めはしないだろう。
けれど、香也子が飛び上がるほどに驚いたのは、それだけではない。

声。

年齢も定かではないしわがれた声。
何の艶も響きも拒否し、無理やり押し出したようなつぶれた声に、香也子は恐怖を感じたのだった。
思わず駆けだしそうになって、「あ、すみません!」の声に、再びすくみ上る。
振り返ることもできないまま硬直していると、「私はこっちの角を曲がります。いきなり声をかけてすみませんでした」と、その声が確かに遠ざかってゆく。
それも足早に。
スニーカーのような柔らかい足音が駆け去り、それでも香也子はしばらく動けなかった。

けれど、すぐに背後からおばちゃんたちの姦しいおしゃべりが近づいてきて、恐る恐る振り返ってみた。
もちろん、先ほどの声の主はそこにはいない。
おばちゃんたちは3人、それぞれトレーニングウエアらしきものを着て、寒い夜だというのに、いっちょ前にタオルなんぞを首からかけているのを見ると、ウォーキングの最中のようだ。

3人は立ちすくんでいる香也子には目もくれず、おしゃべりに夢中。
足よりも口の動きのほうが早い。
こんな風に歩きながらしゃべるのは、近所迷惑なんじゃないかと思うが、今はその近所迷惑がありがたい。

香也子はその3人を呼び止め、スマートフォンの画面を見せた。
「ああ、ここならこの先の四つ角を左に曲がってすぐ。
すぐにわかるわよ、倒れかけたような古い建物だから。
夏まで縫製工場があったとこ。つぶれちゃって夜逃げしたのよねぇ」
「そうだったね。お気の毒に。奥さん、円形脱毛症だったって」
「子どもさん、中学生と高校生だったでしょう。学校どうしたのかしらねぇ」

いらぬ情報まで付け加えて教えてくれると、3人はすぐにまた歩き始めた。
「だからね、うちの息子に言ったのよ、同居なんて絶対にしないからって」
「当然よね。お姑さんにいびられて、また嫁に意地悪されるなんてまっぴら」
「アタシたちの世代って、ほんとにかわいそう」

最近の姑世代のボヤキを聞き流しながら、花の垣根に沿って歩き始めた。
花の香りが見送ってくれる。

それにしても、シシガシラって何?

3人のおばちゃんの与えてくれた情報は正しかった。
その建物の前に立った時、香也子は思わずスマートフォンにメモってあった住所を見直したほどだ。
昔からの日本家屋が立ち並ぶ住宅街のはずれ、最寄り駅から徒歩20分。
 
縫製工場跡ということだが、固く閉じられたシャッターが街灯にわびしく照らされているだけ。
香也子は途方に暮れた。

どこから入れというんだ?

その時、突然頭上から声が降ってきた。
「あ、カヤコ、遅かったじゃない。そこの非常階段、上がって。ドアは開いているから。
んで、階段下りてきて」
見上げれば、高校時代からの友人、佐々木優奈が窓から身を乗り出して手を振っている。

階段を上がって、また下りる?
なんのこっちゃと思いながら、工場の横についているさびた階段を上がり、ドアを開く。
そこは以前の住居部分だったのか、ダイニングキッチンのしつらえになっていて、大小さまざまの鍋やフライパンがシンク上の吊り棚に、ぎゅうぎゅうに押し込められている。
もちろん、最近使われた気配はみじんもない。
夜逃げしたという言葉がふいに真実味を帯びて迫ってきて、香也子は、夏までここで暮らしていたという家族に同情を覚えた。
室内を見渡せば、壁際に置いてある食器棚にも食器がそのまま並んでいるし、もっとも今、その大半はダイニングテーブルの上に放り出されている。
それだけではなく、テーブルの上には食べ散らかした菓子類、飲みさしのペットボトルなどが散乱、てんでに置かれたイスは大きさも形もデザインもバラバラで寄せ集めだと一目瞭然。
まぁ、それもはっきり言えば、香也子にとっては見慣れた光景ではある。

その部屋の奥に、上下を繋ぐ階段の踊り場があった。
上の階へ続く階段は薄闇の中に消えていたが、階下からはほんのりとした光と賑やかな声が聞こえてくる。
なんとなくほっとして、香也子は、珍しくきちんと揃えられている様々な靴の間にねじ込むようにして通勤用のパンプスを脱ぐと、ハの字に開いたまま置かれていたスリッパをつっかけ、その階段へ向かった。

階段を下りたそこは、天井の高い広間になっていた。
今ではミシンなどの機械はすべて取り払われているが、傷だらけの木の床や重い機械が設置されていた痕跡があちらこちらに残っている。
窓はすべてシャッターが下りて、先ほど香也子が途方に暮れて佇んだ広い開口部(多分、以前はそこに軽トラックが止まって、材料や完成品を搬出入したのだろう)もシャッターでおおわれている。

その広い空間に、今、20人ほどの男女が集まっていた。
ほとんどがジーンズなどのラフな格好で、それぞれ台本片手に好き勝手に動き回っている。

「あ、カヤコ、お疲れ~」と、駆け寄ってきたのは、先ほど2階の窓から手を振った優奈だった。
彼女も分厚い台本を持っている。
今回は久しぶりに主役が回ってきたという。
観客よりもスタッフの人数のほうが多いこともある貧乏劇団の芝居だといえ、友人として喜ばしいと思う。

「ごめんね、遅くなって。それにしても、新しい稽古場確保したっていうから期待してきたのに、なぁに、ここ、以前よりひどい。
駅から遠いし」
「まぁまぁ、文句は言うな。少ない予算でこれだけの広さを確保するの、なかなか大変なんだから。
ここだって、この工場の債権がなぜだか回ってきた某会社にコネがあった団員が、無理やりお願いして借りてんだから、贅沢は言えない」
「はいはい」

苦笑している香也子に、「はい、今回の衣装デザイン。古着はそこの段ボールの中。あとは任せる」と、優奈は『衣装企画案』と殴り書きされたノートを手渡してきた。
また役者たちの中に戻っていった優奈の背中に、「さんきゅ」とつぶやくと、香也子はそのノートをめくりながら壁際のベンチに腰を下ろした。

香也子はこの極貧劇団『綾小路幸麿』の衣装担当、もちろん外注スタッフだが。
高校時代からの友人の優奈は、高校時代から演劇にのめりこみ、卒業後は地方の芸大に進学した。
32歳になる現在まで、全くぶれることなく芝居を続けている友人に対して、香也子は内心尊敬の念を抱いているが、それを直接彼女に言ったことはない。
そんなことをすれば、彼女はこちらが恥ずかしくなるほど照れ臭がって、「なぁ~に、言ってるのよっ!」と、バンバン背中をたたいてくることを知っているからだ。

そんな優奈に誘われて香也子が劇団に出入りするようになったのは、4年前。
ちょうど今頃、「クリスマス公演で使う衣装が足りない!Help!」といきなりメールが来て、徹夜仕事に駆り出されて以来だ。

香也子は大学は家政学部に進学、もっとも学んだのは被服ではなく住居学科だった。
にもかかわらず、優奈の中では、家政学部=裁縫だったようで、高卒後は連絡を取っていなかったのに、いきなりメールをよこした(アドレスは共通の友人から聞いたらしい)。
以来、年に2回、ないしは3回ある公演のたびに駆り出されている。
もちろん、ギャラは出ない。
時々、24時間営業のファミレスで夜食をごちそうしてもらうくらいだ。
それでも、香也子には文句はない。

どうせ気ままな独り暮らし。
会社とマンションを行ったり来たりするだけの毎日に、半年に一度か二度、時間にすれば1~2週間のことなのだが、適度な刺激を与えてくれる貴重な経験だった。
今回も優奈の要請を受けて仕事帰りにここまでやってきたのだ。

一通りノートをめくって、今回の衣装のコンセプトを把握する。
今回のクリスマス公演は、オペラ「椿姫」のパロディらしい。
それも、舞台を18世紀のパリ、江戸時代、現代と目まぐるしく移動させて。
オペラ「椿姫」は、高級娼婦のヴィオレッタ・ヴァレリーが最後には亡くなってしまうという悲劇だが、『綾小路幸麿』版では、主人公の二人の人生は喜劇に見舞われるようだ。
というか、少々人をおちょくった劇団名からわかるように、コメディを得意とする劇団だ。
ヴィオレッタ・ヴァレリーが江戸時代や現代に生き返って大暴れするような安易な内容は、香也子でも想像がつく。
案の定、中央では台本を持ったままの立ち稽古が始まったようだが、相変わらずのドタバタぶりにさらに拍車がかかっているようだ。

香也子はそちらは役者に任せておいて、自分の役目を果たすことにした。
傍らの段ボールを開けると、ぷんと古着の臭いが鼻を衝く。
貧乏劇団なので、毎回衣装は古着をリメイクしている。
そして、公演後は毎回それを売り払って赤字を埋める(焼け石に水程度だけれど)。
芝居用に作り変えた奇抜な衣装が売れるはずなんかないと香也子は思っていたが、個性的な衣装はそれなりにニーズがあり、けっこう高値で売れてゆく。

「それもね、カヤコが手伝ってくれるようになってからよ。
アンタはすごい!うちの救いの神だよ!こんなに上手なのに、なんで被服科に行かなかったのよ」
優奈はそう言って手放しで香也子を褒めてくれる。
自分が褒められると真っ赤になって否定するくせに、香也子のことは大仰に褒めてくれる友人が、香也子にはありがたい。

段ボールの中身をノートと照らし合わせながら確認し終わると、香也子は視線を上げた。
部屋の中央ではまだ立ち稽古が続いているが、今回、裏方を担当するスタッフたちが、それぞれ壁際に陣取って作業をしている。
大道具や小道具、照明のスタッフは香也子とも顔なじみ。
彼らは、今回は、裏方の仕事をしながらも通りがかりの人間や電信柱や木などの役で舞台にも立つ。
違う舞台では、主役を演じることもある。
貧乏劇団とは、優奈をはじめ、なんとも器用な人たちの集団だった。

香也子も舞台に立つことを勧められたこともあったが、顔の前で大きく手を振り断った。
私は、衣装を作っているだけで満足だから、と。

顔見知りのスタッフたちと軽く会釈を交わし合い、また手元のノートを見ようとしたその時、香也子の視線が一人の男性をとらえた。
釘付けになったと言った方が正しい。

香也子から見えるのは横顔。
頬にかかる髪の毛はやや長めだが、小汚いロングヘア(役によって伸ばしたり、切ったりするのだ)が多い劇団員の中にあっては、清潔で短い。
高い鼻梁に男らしい眉、と、ありきたりの表現しかできないのがもどかしい限りだが、香也子は視線を外せない。
黒縁眼鏡の奥の優しげな目は、手元の楽譜を読んでいる。
ふっくらとした唇は引き結んだままだが、傍らの男の言葉にうなずきながら、自由な方の手が何かリズムを取っている。
意外に大きな手なのに、その動きの優雅で繊細なこと。
指の描く軌跡が風のように香也子の心を揺らす。
3拍子なので、ワルツなのかもしれない。
いや、ワルツであってほしいと香也子は痛切に思った。

だって、優雅なワルツは、あの人のふさわしい。

横にいてしきりに何か話している音響係の男は確か身長170センチくらい。
だとすると、男性は180くらいか。
すらりとした長身をラフなダンガリーシャツとチノパンで包んで、その立ち姿にだって上品なオーラがにじみ出ている。
これは、一朝一夕では手にできない、生まれながらに備わっている品格だ。
なんと印象的な男性なのだろう。

香也子は、中央で立ち稽古をしている役者たちへと視線を移した。
今回、椿姫、つまりヴィオレッタを演じるのは、優奈。
久しぶりの主役だと威張っていた。
相手役の青年貴族、アルフレード・ジェルモンには、この劇団主催者の、あんたがたどこさ(もちろん芸名)が扮しているようだが、青年貴族を標榜するのは冗談だとしか思えない。
いや、はっきり言えば安酒場で飲んだくれている庶民がいいところ。

香也子はもう一度視線を、音響係と話し込んでいる男性へと向けた。

なぜこの人がアルフレード・ジェルモンを演じないのだろう?
これほど目を引く人を、どうしてみんな放っておくのだろう?
私にだって「笑えば愛嬌のある顔をしているし、役者をやらないか」と声をかけてきた連中なのだ、この人に役者をやらせないなんて信じられない。
舞台に立つだけで、たとえどんな大根役者だったとしても、ほかの貧弱な役者を圧倒するだけの存在感があるではないか。

香也子はあたりを見回した。
誰かが、自分同様、その男性のオーラに圧倒されているのではないかと思ったからだ。
けれど、誰も彼に注目していない。
それぞれ自分の仕事に熱中している。

香也子も慌ててノートに目を落とした。

どうして?

「おっつかれ!」
タイミングよく優奈が休憩に入った。
香也子の隣に勢いよく座ると、手にしていたペットボトルの水をごくごくと飲む。

「ねぇ、ユウ、あの人、誰?」
「あの人って?」
「音響のメグさんと一緒にいる人」

香也子の言葉に、優奈は一瞬、口をつぐんだ。
その口の端から水が一筋、糸を引くように落ちてゆく。

「ああ・・・、桐野くん、ね」
「きりの、さん?」

優奈はあごに垂れた水を乱暴にぬぐいながら、香也子の顔をのぞき込んだ。
「あんた、知らないの?桐野 宏。有名だよ」
香也子は首を振った。
「元オペラ歌手。音大在学中にイタリアの巨匠に認められて、本場に留学してたんだよね。
いろんなコンクールに出場して、東洋人としてはあっぱれなくらいいろんな賞をもらって、将来を嘱望されていたの。
ホントに知らない?」
「私、家政学部だったから」

そういう問題じゃないだろという顔をしたが、人のいい優奈はその表情をごまかすためにか、もう一度水を飲むと話を続けてくれた。

「これからって時に、Rui Aizawaにつかまっちゃったんだよね」
「あ、その人なら知っている。世界的に有名な歌手だよね。
でも、つかまったって…、確かRui Aizawaって、もう40半ばじゃ・・・」
「彼女にゃ、年齢差なんて関係ないの。
もともとのご主人だってかなり年上だったし、離婚してからはもうとっかえひっかえ。
その毒牙にかかっちゃったのが、当時26歳の若きテノール歌手、桐野君だったわけよ。
Rui Aizawaは、『椿姫』の相手役に彼を選んだ。
それがそもそもスキャンダルの始まり」

「スキャンダルって、彼、Rui Aizawaの愛人だったの?」
優奈は首を振った。
その視線の先には彼がいる。
先ほどと同じように、音響スタッフの話にうなずきながらしきりに手を動かしている。
さっきとはリズムが違うから、また違う曲なのだろう。

「どっちかと言えばRui Aizawaのほうがぞっこんというか、追いかけまわしていたみたいね。
何しろ、あの容姿だし、魅惑のベルベットヴォイスと評されていたというし。
でも、彼は自分のキャリアを築くことしか頭になかった・・・らしいよ、どうも。
だから、Rui Aizawa が、アルフレートを餌にベッドに誘っても首を振らなかったらしい。
何しろ、そのベッドには、まだほかの男がいたしね。
でも、まぁ、Rui Aizawaは、共演する間に何とかできると思っていたんでしょ。
実際、共演者の間では、二人はくっついたって噂が流れていたらしいし、ゴシップ紙には、『Rui Aizawaの新しいツバメ』という記事も出ていたそうだから」

あの男性がそれほど輝かしい過去を持っていたことは分かった。
あたりを圧倒するほどの存在感があるのも、至極当然だということも理解した。
それが、どうして今ここに、こんな貧乏劇団のボロボロの稽古場にいるの?

香也子の怪訝な表情を読み取ったのか、優奈はもう一度ぐびっと水を飲むと、
「ホントに知らないの?5年位前かな、海外の話なのに、一時期ワイドショーはそればっかりやっていたよ。
まぁ、スキャンダルまみれの美貌のプリマドンナと新進気鋭のイメケンテノール歌手ってんで、ヒマなおばちゃんたちが飛びついたみたいだけれど」

香也子は首を振った。
「5年前は、私・・・」
優奈は一瞬、しまったという顔をしたが、すぐに肩をすくめた。
「まぁ、でも、その大抜擢がおもしろくなかったのが、当時Rui Aizawaの恋人だった同じテノール歌手。
確かその男も30前じゃなかったかなぁ。
チケットも完売した初日の前夜、桐野 宏は、Rui Aizawaが呼んだ救急車で運ばれた。
翌日、その代役を恋人だった男が務め、無事終了。
けれど、桐野君はそのままスキャンダルの海に沈んだ」
「そんな・・・。どうして初日前日に」
「それは・・・」

「お~い、稽古再開するぞ~」
演出も兼ねる、あんたがたどこさが、部屋の中央からみんなに声をかける。
「はぁ~い♪」
これ以上、話さずに済んだ安堵の表情を隠しもせずに、優奈が役者に戻る。
釈然としないまま、また香也子は桐野という青年の横顔へと視線を向けた。

うつむいて手元の楽譜を見ているものだから、サイドの髪の毛が頬にかかる。
それをほんの少しだけうるさげにかき上げる仕草も、つややかだ。

今さらながら、優奈の言葉から彼の年齢を推測する。
5年前に26歳なら、多分自分と同じくらい。

5年前、か。
そっか…。

ふと過去に戻りそうになり、香也子は大きく首を振った。
もう一度ノートを見直しながら、自分なりのメモを付け加えてゆく。
公演まであとひとつき。
最後の半月は、香也子もここに詰めて片隅に置いてある古いミシンに向かいっきりになる。
ジェットコースターに乗るような、慌ただしくて刺激的で楽しい時間が始まる。
でも、その時間の楽しさは香也子をとらえて離さない。
無心に布と向き合い、様々にリメイクしてゆく楽しさは、香也子だけのものだったから。


終電近く、電車を使う役者たちは足早に最寄り駅に急ぐ。
香也子も優奈と並んで小走りで駅に向かっていた。
静かな住宅街だから、誰も口を開かない。
自分たちの声が思っている以上に響くのを誰もが知っている。
香也子は傍らの優奈に遅れないように歩いていたが、ちらりと背後を振り返った。
彼は自転車を押しながら、音響のメグさんと一緒に歩いている。
相変わらず口は閉じたまま。

稽古場には、役者たちのセリフのほか、いろんな声が飛び交っていたが、とうとう桐野の声を聞くことはなかった。
よほど寡黙なのかとも思う。
あのふっくらとした口からどんな美しい声が放たれていたのか、香也子は想像する。
部屋に戻ったら動画サイトで調べてみようと思った。

日曜日、香也子はまた劇団の稽古場に向かった。
その日は一日、稽古場の片隅でミシンに向かう予定だった。
自分の部屋にももちろんミシンはあるが、劇団のほうでも古いミシンを調達してくれたのだ。
おかげでかさばる荷物を持ち歩く必要もなくなったし、役者たちもその場でサイズやほころびを直してくれるのでお互いに重宝している。

午前中から熱の入る稽古を横目で見ながら、香也子は役者の役柄や演技コンセプトに合わせて古着をリメイクしていった。
現代に舞台を移しているとはいえ、椿姫の時代とのパラレルなので、それなりにクラシカルなドレスや時代考証をまるで無視したスーツやキモノまで登場する。
香也子はメモと役者のサイズと演出意図に自分のセンスをプラスして(もちろん、演出のあんたがたどこさの賛同と了解は得ている)ミシンを踏んでいたが、どうしても使いたいチュールレースやタッセルなど、いくつかのアイテムが足りない。
近くの百均で調達できる(衣装にお金はかけられない)ものばかりなので、駅前まで出かけることにした。

間もなく12月。
昼前だというのに、冷たい風に肩をすくませながら20分の道のりをてくてく歩く。
予算内で何とか抑えようと駅前にあるいくつかの百均ストアをめぐり、両手いっぱいに袋をぶら下げて帰り道を急ぐ。
見た目よりは軽いものが多いとはいえ、かさばるので歩くのはちょっと苦労。
ほっと一息つけば、あの生垣の傍らに立っていた。

そう、初めてこの道を急いだ夜に立ち止まった花の傍ら。
朝は、優奈と一緒に歩いていたので気が付かなかった。
今、荷物を持て余して立ち止まり、改めて見渡せば、先日よりも花の数は増えているようだ。
周囲に視線を走らせれば、けっこうあちらこちらに同じような植木が見える。
どこかすすけたような古い住宅街にあって、その濃い緑はどこか清々しい。

香也子は目の前の花に視線を戻した。
厚めの葉にはとげとげがあって、不用意に手を出せばちょっと痛そう。
花を守る凛々しいナイトのようだ。
その濃緑の葉の間から、可憐な花がこぼれるようにして咲いている。

その時、一瞬の風が舞って、花が揺れた。
幾重にも重なる花弁が、風に巻き込まれるようにして花を離れ、香也子の足元に散ってゆく。
椿にも似ているけれど、散り方が違う。

「やっぱり、山茶花よね?」
「シシガシラです」

ぎょっと振り返る。
同時に、動揺して油断した香也子の手から、かさ高い袋の重さが消える。

目の前に立っていたのは、あの王子様。
青年貴族を演じたら、誰よりも様になる男。

今の声。
あの夜聞いた、艶も余韻もないダミ声。

香也子はあれから、彼の声を何度も動画で聴いた。
艶やかで伸びのあるテノール。
彼の歌声は情感にあふれ、目を閉じて聴いていると、頬を撫ぜてゆく優しい声の感触に背筋がそそけ立つほどだった。
もっとも、目を閉じていては彼の美しい姿を見逃がすので、すぐに凝視してしまったが。
魅惑のべルベットヴォイスと称賛され、日本人離れした容姿で将来を嘱望された新進気鋭のオペラ歌手。

なのに。

今の声。

それが、Rui Aizawaの愛と椿姫のアルフレートを手に入れ(かけ)た代償か。

桐野 宏がそこにいた。






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