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心、こぼれて(完結)

心、こぼれて 21

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21

シーリングライトの薄明りの中で、浩一はスマホを手にしたまま逡巡していた。
ディスプレイには尚美の携帯番号が浮かんでいる。

絢奈は、教職セミナーがあって今夜は遅くなると言っていた。
尚美の夫が長期出張中であることも、鮎沢から聞いていた。
今、電話をしても誰にも聞かれる心配はない。咎める人間はいない。
けれど、躊躇してしまう。

今日の放課後、尚美が職員室に自分を訪ねてきて、その場で倒れたと知った時は、体中の血が逆流するほどに動転した。
彼女が広報だよりの大幅変更の件で来ることはわかっていたが、夏休み前の課題のことで教室に戻らなくてはならなかった。
同僚たちにその旨伝えておいたのだが、自分が騒ぎを知った時はすでに彼女は保健室に運ばれた後だった。

慌てて保健室に行くと、養護教諭が教頭とこれからどうするかを相談しあっている最中だった。
若い養護教諭は、目の下にクマも浮かんで知る、寝不足による疲労も見えるが軽い脱水症状を起こしているようなので、できれば救急車を呼んだ方がいいと判断していた。
そこへ、5年生の保護者、隣のクラスの鮎沢が飛び込んできた。
彼女も美化委員会の用事で登校していて、尚美が倒れたと聞いて駆け付けたとのことだった。

教頭が職員室へ校長の許可を取った上で救急車を呼ぶと同時に、尚美の夫へ連絡を取ると告げた時、「近藤さんのご主人は長期出張中で、すぐには帰ってこられない。私は同じ社宅に住んでいるので、私が面倒みます。ご主人には私の方から連絡しておきますから」と、言ったのも鮎沢だった。

彼女が昨年転校してきた5年生の保護者で、この小学校は2年目にも関わらず、周囲から何かと頼られている姐御肌の人間であることは周知の事実だった。
転校早々、「PTA役員をやれば学校のこともよくわかるし、先生方とのコミュニケーションも取れるから、転校してきたばかりの人はPTA役員をやった方がいいわよ」というおためごかしな常套句を鼻で笑いながら、役員を引き受けたという逸話の持ち主だということだ。
そのうえ、積極的に意見を出して、毎年、夏休みに入った直後の土曜日に行われる、「親子清掃」とは名ばかりで、PTA役員しか(それも嫌々)参加しなかった全校掃除をシステマティックに改善してイベント化し、保護者の参加率70%という驚異的な数字に引き上げた。
それどころか、1年に1~2回の活動しかしていなかった美化委員の定期的全校巡回や地元老人会に花壇の一部を解放しての花いっぱい運動などを実現。

校長をはじめ教頭や学校職員にも一目置かれ、委員長や副委員長も嫉妬するどころか、権限を丸投げ状態だったらしい。
そして今年、彼女は副委員長を経験することなく、全会一致の上でいきなり美化委員長に推挙され、彼女も快くそれを引き受けた。

それを知っている教頭も、尚美の世話を鮎沢に一任した。

3人のやり取りを背中で聞きながら、救急車が来るまでのほんの数分、浩一は、なすすべもなく尚美の憔悴した顔を凝視していた。
養護教諭も教頭も鮎沢も、それぞれが尚美のために相談し、手立てを考えているときに自分だけは何もできずにいた。

養護教諭の言葉通り、寝不足の疲労というのが事実ならば、その原因は容易に想像がつく。
昨日の朝、彼女から悲鳴のような電話がかかって来たではないか。

調べてみるとは返事をしたが、まさか子どもたちに確認することもできず、ましてや一番疑える稲垣は、教頭の監視下にあった。
尚美に返事ができないまま時間が過ぎていたが、多分、彼女は気に病んだまま二晩、眠ってはいなっただろう。

自分の判断の甘さに、浩一は悔やむことさえできなかった。

教頭が職員室に行ったあと、養護教諭も救急車を誘導するために保健室を出ていった。
後に残った鮎沢に、「息子さんの涼太君を探してきていただけますか。多分、グランドで遊んでいると思います」と背後から声をかけられるまで、浩一は呆然と立ちすくんでいた。
慌てて振り返った浩一を、鮎沢はどこか哀れむような視線で受け止めたが、あとは何も言わなかった。

結局、尚美を乗せた救急車の後を涼太を助手席に乗せた鮎沢が自家用車で追い、30分後に、運び込まれた病院から連絡が入った。
浩一が学校を後にしたのはそれから30分後のことだった。
もちろん、校長と教頭には病院へ行くことは告げた。
万が一、あとで誰かに見咎められて、ゆがんだ憶測をされることを避けるためだった。
特に今は用心するに越したことはない。

けれど、急患用の点滴室に横たわる尚美を浩一は直視できず、すぐに廊下に出た。
鮎沢から、「軽い脱水症状を起こしているけれど、点滴が終われば帰れます」と報告されたが、その時、自分がどんな表情をしていたのか、鮎沢の目を見れば想像がついた。
何かをひどく言いたげではあったが、結局、彼女は黙ったままドアを閉じた。

涼太から「ママの目、覚めたよ」と言われるまで、ただ悄然とすわりこんでいたように思う。
会わない方がいいと、いや、鮎沢と涼太の前で醜態をさらしてしまうことを恐れて、言い訳に持ってきた茶封筒を涼太に託した。

それが、3時間前。

幾度もディスプレイに尚美の番号を浮き上がらせては、画面が昏くなるまで見つめていた。
間もなく絢奈も帰ってくるだろう。
猶予は、あとほんの少し。
いっそのこと、絢奈が予定よりも早く帰宅すればいいと思う。
そうすれば、自分は慌ててこの番号を消すことができる。
何食わぬ顔をして絢奈に「おかえり。お疲れ様」ということができるのに。

自分がこれほど優柔不断だとは思わなかった。

けれど、涼太に茶封筒を預けるとき、自分は「あとから電話する」と、ことづけてしまった。

尚美は待っているかもしれない、自分からの電話を。

スマートフォンのデジタルが10時を表示したとき、浩一は震えるような気持ちでオンボタンを押す。
2コール目で、彼女は電話に出た。

「ナオ・・・」
―――今日はご迷惑をおかけしました
「いや・・・、体は大丈夫なのか?」
―――お蔭様で

少しだけけだるげだが、そっけないほど事務的な口調は心配していたほど弱くはない。

「・・・あの、すまない。噂の出どころは・・・」
―――あの件は忘れてください。出どころはわかりましたから。
しばらくはご迷惑をおかけするかもしれませんが、いずれ消えます。
私・・・、私たちには疚しいことなんかないんですから
「ナオ」
―――・・・止めて。
・・・原稿の変更は確認しました。山岡さんも確認のうえ、レイアウトも至急変更してくださるそうです。
明日には田中先生のところへメールで送信してくださるそうです。
先生が確認のうえ、すぐにリソートできますので。
立ち合いは・・・
「俺一人でも・・・、いや、やっぱり立ち合いをしてほしい」
―――委員長も復帰できそうなので、委員長にお願いしておきます。
副委員長の谷山さんもいるし
「・・・吉川さんからは俺も連絡を受けている。けれど、復帰は2学期から、夏休みの間は実家で静養すると聞いている」
―――・・・

受話器の向こうでけだるく息を吐いている尚美を感じる。
それきり、彼女は何も言わない。
浩一も言葉を探していたが、迷っている間に彼女が電話を切ってしまうのではないかと急に不安になり、「噂の出どころがわかったのか?」と、尋ねた。
彼女が、息をのむ。
けれど、何も言わない。
その代わり、耳に届いたのは震える息の気配だった。

「ナオ?」

彼女が泣いている。

「ナオ」

―――社宅の人だった。私・・・、見せてしまったの、稲垣先生の写真。
あなたと私がみつめあっている、あの廊下の写真。
愚痴を吐き出すつもりで。夫の同期の奥さんに。一番、親しかったから。
まさか、彼女が歪曲して言いふらすなんて想像もしていなかった

静かな嗚咽が冷たいナイフになって、浩一の心に突き刺さってくる。

「ナオ」
―――会いたくない

言葉と裏腹の意味に聞こえたのは、耳の、想いの錯覚か。

それきり、電話は静かに切れた。

ほとんど同時に、ドアが開く音。
絢奈が帰宅したのだ。

浩一はスマートフォンを両手で包み込み、デスクの上に静かに横たわらせた。
振り返りたい体を抑えつけるようにして書斎を後にした。



鮎沢に付き添われて自宅に戻ったとき、時計は7時半になっていた。
尚美を部屋に送り届けた鮎沢は、シール容器をいくつか抱えてすぐに戻ってきた。
彼女が作り置きしていた惣菜を分けてくれたのだ。
遠慮する尚美に「涼ちゃんのためだから」とさらりと言って、押しつけがましさも、引け目も感じさせることはなかった。
温め必要なものは手際よく電子レンジで温め、涼太の前に並べると、「お大事に。またゆっくり話をしましょう」と、さっさと帰っていった。

不安だったのか、母親のそばにべったりとくっついていた涼太だったが、「ごめんね、おなかすいたでしょう?いただきなさい」と促すと、上目遣いで小さくうなずいた。
さすがに空腹だったのか、最初は鮎沢の手作りのお惣菜を珍しそうに眺めていたが、自分の分は瞬く間に平らげた。
尚美が手を出さないことに気づいて、「ママは?」と心配そうに尋ねられたが、「ママはおなかすいてないから」と首を振った。

それでも、涼太は寝るまで尚美のそばを離れなかった。
小学校2年生なのにと思いながらも、尚美自身も涼太の甘えに逆に甘え、久しぶりに同じベッドで寄り添った。

涼太のベッドを離れたのは、リビングに置いてあったスマートフォンが鳴ったことに気づいたからだった。
夫からだった。

―――昨日はごめん。仕事が長引いて、結局、会社で仮眠してた。
涼太はもう寝ちゃったよな?

まさか、社宅の騒ぎが夫にまで伝わってはいないだろうかと恐る恐る出た電話だったが、夫の声は疲れているものの屈託はない。
内心、ほっとして、できるだけ明るい声を出す。

「お疲れさま。無理はしないでね」
―――ああ、何とかやっている。そっちは何も変わったことはない?
「うん。大丈夫」

夫に今の状況を告げるわけにはいかない。
それでなくても多忙なのだ。
ましてや、滝沢は同期だった。

以前、夫がさりげなく「滝沢の奥さんとは仲良くしているのか?」と尋ねてきたことがあったが、こんな状況になることを予感していたのかもしれない。
それでなくても社宅での気苦労を夫は幾度も心配し、労わってくれた。
大柄でいかつい容姿から、夫のことを豪放磊落な性格だと思う人も多いが、実際は繊細で細やかな気遣いのできる人間だった。

そんな夫にこれ以上の負担をかけたくはなかった。

「パパ」
―――ん?
「早く帰ってきてね」
―――どうした?何かあったのか?
「ううん。でも、涼ちゃんも寂しがっているし」
―――ママ
「はい」
―――ずっと一緒にいような

自分の言葉が照れ臭かったのか、夫はいきなり電話を切った。

尚美はリビングの床にぐったりと座り込んで、部屋の隅を見上げた。

力なく握っていたスマートフォンが続けざまに二度、LINEの着信を告げる。
のろのろと持ち上げると、広報委員長の吉川と副委員長の谷山からだった。

鮎沢から今日の出来事を聞いたのだろう。
余計なことを、と一瞬思ったが、いずれ知られるなら早い方がよかったかもしれない。

二人とも、「もう眠っているかもしれないからLINEにした。ゆっくり休んで。広報だよりのことは心配しなくてもいい」と、それぞれ表現は少しずつ違ってはいたが、同じような内容のメッセージが入っていた。
「ありがとうございます。ご心配かけてすみません。また連絡します」とだけ返信し、テーブルに戻す。

病院で深く眠ったせいか、体は引きずりそうなほど重いのに目はさえている。
自分のベッドに身体を投げ出し、ぼんやりと天井を見上げていた時、浩一からの電話が入ったのだった。

彼からの電話を待っていたのかどうか、自分でも定かではない。
夫からの優しい言葉を薄闇の中で幾度も反芻して、もろくこぼれてしまいそうな心を抱いていた。
夫を愛していることは確かだった。
あの卑劣な行為から助け出してくれたあの日から、二人の道は決まっていたのだと今でも断言できる。

なのに、揺れる心をどうすればいいだろう。
夫への愛で満たされているはずの心から、こぼれてしまいたがる想いを、どうとどめればいいのだろう。

浩一と、驚愕の再会をしてしまったあの日からのことを一つ一つ拾い上げるように思い出して、唇をかむ。
そんな想いの海にゆらゆらと漂っていた尚美には、「ナオ・・・」という不安をにじませた浩一の声はあまりに優しすぎた。
だから、そっけない返事しかできなかった。

夫の電話では我慢していた涙もこぼれてしまった。
嗚咽が漏れるのを隠すこともできず、「会いたくない」というのが精いっぱいだった。

また会うのか、会えるのか。
噂に怯えながら、浩一の声に震える自分が信じられなかった。





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