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心、こぼれて(完結)

心、こぼれて 20

 ←やっぱり愛人には優しいのか・・・ →喜寿のお祝い
20


朝、涼太を送り出した後、尚美は夫にいたわりの言葉をLINEで送ると、また学校に電話を掛けた。
電話口に出た浩一も、「谷山さんから聞いています。ご足労ですが、放課後、来ていただけますか」と、事務的に応えた。
そこに動揺やためらいは一切ない。
電話を切ると同時に、パートに向かうために慌ただしく家を出る。
社宅内で何人かの人と挨拶を交わしたが、特に意味ありげな視線を感じはしなかったことに、やはり安堵する。

午後4時までのパートを終え、そのまま学校に向かおうと自転車を駐輪場から出した時、バッグの中でスマートフォンが着信を告げた。
鮎沢からだった。
直射日光を避けて自転車ごと木の陰に入ると、尚美はその電話に出た。

―――近藤さん、今、お家?
「いえ・・・、パート先です。これから学校へ行きます。広報の仕事で・・・」
―――・・・田中先生と会うってこと?
「はい。別に疚しいことをしているわけじゃありませんから。
広報だよりの夏休み号が大幅変更になるので、その調整です。
二人きりで会うわけじゃありません」

探るような鮎沢の声に、つい強い口調になる。
鮎沢は尚美の剣幕に一瞬、絶句したようだが、「そんなこと私に弁解する必要はないわ」と、返してきた。

恥ずかしさで頬が熱くなったが、尚美は謝罪はしなかった。
目の前に続く道路を視線で走れば、陽炎の中をぼわぼわにふやけた車が行き交っている。

―――じゃぁ・・・、あとにした方がいいかもしれない。
私ももう少ししたら夏休みの清掃のことで学校へ行くから、学校で待ち合わせてもいいかもしれない。
ああ、でも、お家で話した方がいいかな。帰ってきたら連絡くれる?
「なんですか?」

曖昧な鮎沢の言葉と暑さにいらいらしながら言うと、
―――落ち着いて聞いた方がいいと思う。今、外でしょう?
「いいから言ってください。帰ってからも子どもが家にいたら落ち着いて話はできないと思うので」
―――でも
「構わないから言ってください。そんな、そんな勿体ぶった言い方されちゃうと、気にかかって仕方なくなるので」
―――了解。あのね、あの噂の出どころ、わかったわよ。
近藤さん、あなた、田中先生とのツーショット、見せびらかしたってホント?
「えっ」
―――滝沢さんに見せたんでしょう?自慢げに

自慢?自慢げにって・・・。何を見せたって?
誰が?今、滝沢って言った?

―――聞いている?近藤さん。
「な・・・」
―――蒲田さんと滝沢さんが、さっき仲良く並んでエレベーターホールで聞こえよがしにしゃべっていたわよ
「まさか・・・」

こめかみから冷たい汗が滑り落ちてゆく。
頭がくらくらする。
握りしめていたハンカチで何とか汗を拭くが、汗は次から次へと噴き出してくる。

―――もう社宅中が知っている。あなたと田中先生が不倫しているって噂。
何しろ、あなたと一番親しい滝沢さんが言うんだもの、みんな信じるわよね。
あなたが不倫の相談を滝沢さんにしたってことになっているし

「そんな」

尚美の悲鳴に、鮎沢が大きな息を吐いた。
そして、薄く笑う。

―――大丈夫よ、冗談。みんな半信半疑。どちらかと言えば信じちゃいない。
ただ、蒲田さんが絡んでいるから、滝沢さんの話をもっともらしい表情をして聞いているだけ。
みんな、滝沢さんが毛嫌いしていた蒲田さんといきなり組んで、あなたと私を攻撃し始めた理由を薄々感じているのよ。
だから、二人の話は話半分というより、ただおもしろがって調子を合わせている感じかな。
心の中ではあざ笑っている。哀れんでいる、のかなぁ。軽蔑もしている。
あんなに親しくしていた近藤さんをあっさり裏切って、なおかつ誰でも容易に想像できるようなスキャンダルを滔々と垂れ流すなんて。
さすがにね、私が通りがかると、滝沢さんはばつが悪そうに眼をそらしたけれど、その姿さえ嘲笑の的になるって、どうして気づかないのかな。

「・・・な、なぜ、滝沢さんが?理由、理由がわからない。なんで?」
―――わからない?
「わかりません!」

ショックが大きすぎて考える気にもならない。
自分が泣いているのか笑っているのかもわからないまま、ヒステリックに叫んでいる。

―――滝沢さん、嫉妬しているのよ、あなたやうちに。
今回、近藤さんのご主人もうちの夫も本社に呼ばれたわよね?
でも、こっちへ来て4年にもなるのに滝沢さんのご主人は呼ばれなかった。
その意味、わかるよね?
「意味、って。東京オリンピックを見据えたプロジェクトのお手伝いって・・・」
―――・・・ねぇ、近藤さん。あなた、天然?それとも馬鹿なの?
あなただって本社勤務だったんでしょう?販促やっていたんじゃないの?
間もなく二人がこっちへ帰ってくる。そのあと、どうなるのか、考えたことないの?

「そのあと・・・って?」
電話の向こうで、鮎沢が深々とため息をついた。
心底呆れているのがわかる。

―――蒲田さんは賢いわよ。滝沢さんのご主人が自分の夫と同じコースをたどりつつあることを嗅ぎつけた。
だから、自分の陣営にひっぱりこんだ。
滝沢さんも馬鹿よね。でも、彼女の気持ちも理解できる。
彼女の思惑としては、こっちに来て4年、そろそろ本社に戻れるはずだったのよ。
年齢的にも今戻らないと、ラインのコースから外れて一生地方回りになってしまう。
なのに、転勤2年目のうちと3年目の近藤さんが呼ばれた。
ポストの枠は限られているの

尚美にもやっと理解できた。
そして、本当に何も気づかなかった自分の愚かさにも呆然とする。

雅恵は幾度も言っていたではないか。
早く本社に戻りたいと。
今、本社に戻れなければ、いずれ蒲田のようになってしまう。
コースを外れた挙句、妬んで僻んでひねくれた人間のなれの果てって見本だもの。
同情はするけれど、ああはなりたくないよね、やっぱり、と。

膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
雅恵が、たった一人でもいい、味方でいてほしいと願っていた雅恵が噂を流した張本人だったとは。

汗なのか涙なのかわからない熱いしずくが、頬を零れ落ちてゆく。
ぐっしょりと濡れたタオルハンカチを握りしめたまま、立ちすくむ。

―――社宅のみんなは、蒲田さんはあと少しで出ていくから適当にご機嫌を取っておけばいいし、自分たちもいずれマイホームを買ったり、転勤になって社宅を出てゆく。
今だけやり過ごせばいいって思っている。
興味津々って顔しながら、心の中でさげすんでいるのが丸わかり。
でも、あなたはまだましよ。うちは蒲田さんにもっとひどいこと言われている。
相変わらず略奪だの、元の奥さんを追い出すために散々いじめたとか、元の奥さんに相談されて慰めていたとか、一度しか会ったことないって前はみんなの前で言ったくせに、バカじゃないの、って話ばかり得意げにいふらしているわよ。
滝沢さんはもっとましだと思っていたのに、見損なったなぁ。
さばさばしたいい人だと思っていたのになぁ。
でも、いい。もう転勤だもの。こんな社宅、さっさと出ていくんだから。
蒲田さんも滝沢さんももっともっと惨めになればいいのよ

尚美が悄然と聞き流していることに気づいているはずなのに、鮎沢はおしゃべりを止めない。
自分はもっと傷ついているのだと憤慨しているのはわかった。

そうか、鮎沢さんは転勤するのか。
まだ2年目だというのに。
滝沢さん、怒るんだろうなぁ、鮎沢さんが先に転勤になったら。
そしてその八つ当たりで、私のことをもっと悪く言うのかもしれない。
そうか・・・、稲垣先生じゃなかった。
灯台元暗し。
向かいのマンションには、幼稚園で一緒だった人がいる。
滝沢さんは社交的だし、今も幼稚園時代の人たちと仲良くしていたっけ。
だから、まず向かいのマンションの人たちに言ったのか。

尚美はぼんやりと目の前を交差してゆく自動車の群れを眺めていた。
木陰にいるとはいえ、7月の太陽は容赦なく道路を焼き、その照り返しが白く目を射る。
頭の中に熱がこもり、膨張してゆくような感覚。
めまいにも似た浮遊感に、自転車のサドルを握る手に力を入れると、その手がぬるっと滑るほどに汗をかいていた。

どれほどそこにいたのか、尚美は、ぼんやりとあたりを見回した。
握りしめていたスマートフォンを確認すると、鮎沢が「また連絡する。私も出かけるから」と電話を切ってから、まだ5分もたっていない。

尚美はのろのろと自転車を押しながら長い坂を上る。
いつもなら何とか自転車で登ってゆくのだが、今日はそんな力は残っていない。
学校まで自転車なら10分。
この調子ならいつ到着するのだろう?

職員室の前に立った時、壁時計は5時を少しだけ過ぎていた。
多くの教師が忙しそうに職員室の中を行き来している。

以前は一番近い席に稲垣がいたが、最近では姿を見ない。
教頭先生が常にそばにいて研修という名の矯正プログラムが行われているということだが40歳もはるかに過ぎて、今さら、矯正も更生もあったもんじゃないだろう。
尚美は、自分に歩み寄ってきた男性教師に「田中先生にお会いしたいのですが」と告げた。
応じた男性教師の驚愕した表情がゆっくりと歪んでいくのを怪訝に思った時、意識が途切れた。


ぬるい水の底でゆらゆらと揺れていると、はるか遠くから「ママ?」という涼太の声が聞こえてくる。
声のほうへと手を伸ばした途端、いきなり水面へと引き上げられ、尚美は息苦しさに目を開いた。

水の中で揺れていたと思っていたのに、尚美はベッドの上にいた。
クリーム色の天井に見覚えはない。
「ママ!」
毛布越しに涼太がしがみついてきて、尚美は目を見開いた。
「涼ちゃん?」
涼太は泣き笑いのような顔をして母親をしっかりと抱いている。
「よかった、近藤さん、倒れたって聞いてびっくりしたんだから」
涼太の上から覆いかぶさるように、鮎沢がのぞき込んでくる。

状況が把握できず、きょとんと見返すと、鮎沢が、にっこりと笑った。
「寝不足の上に脱水症状だそうよ。本当によく眠っていた。
点滴ももう終わるし、終わったら帰ってもいいってお医者さんが。
車で来ていてよかったわ。一緒に帰ろうね、涼ちゃん」

最後は涼太の頭をなでながら言うと、鮎沢は心底に安堵したように、大きく息を吐いた。

鮎沢の言葉がまだ半分ほどしか理解できなかったが、左手を動かそうとして、ちくりとした痛みに肩をすくめた。
なるほど、点滴の針が刺さっていて、頭の上で点滴の袋が揺れる。

「ああ、動いちゃダメ。あと15分くらいで終わるそうだから、もう少しのんびりしていらっしゃい」
「鮎沢さん・・・」
情けないことに声がかすれている。
鮎沢は、申し訳なさそうにうなずくと、「ごめんね。ショックだったよね。やっぱり落ち着いて話せばよかったわ。私もひどいこと言われたから、つい、その、あなたに八つ当たりみたいに」と、頭を下げた。

鮎沢のせいではないと言おうとしたが、口を開くのも億劫で、小さく首を振ることができない。
それでも尚美の言いたいことはわかってくれたようで、鮎沢もうなずいてくれた。

「涼ちゃん、田中先生に言っておいで、お母さん、目が覚めたって。
外で心配していると思うから」

田中先生という言葉に、尚美は目をむいた。
鮎沢が、何も言うなというように目くばせする。
涼太は母のそばを離れることに躊躇していたが、「ほら、早く。田中先生が待っているよ」と鮎沢にせかされて、しぶしぶとベッドを離れた。

涼太が部屋を出たのを確認すると、鮎沢が椅子に腰かける。
「田中先生ね、さっき、来たの。変更された原稿を持ってね。
でも、さすがに病室にいるのは・・・って、廊下で待っているみたい。
ん~~、田中先生は熱血タイプだから、周りの視線を気にしないで行動に移してしまうから、誤解されちゃうのかなぁ。
別に明日でも、涼ちゃんに持たせてもいいでしょうにね。
ちょっといい迷惑よね」

鮎沢は決して意味ありげに言ったわけではないが、尚美は寝たまま身じろぎした。
涼太は手に茶封筒をもってすぐに戻ってきた。
「田中先生ね、これをお母さんに渡してくださいって言って、帰った。
後から電話するって。お大事にって」
鮎沢と顔を見合わせ、けれど、すぐに尚美から視線を外す。

そこに鮎沢が何の意味もさがさないようにと祈るしかなかった。






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